カテゴリ:新しい生き方を求めて。
日頃、若い子供たちばかりと接して、子供たちとねじり鉢巻で悪戦苦闘している私にとっては60歳代に属しているとはいえ、日常的には老いを余り意識しないで過ごしている事が多い。
しかし、私にも老いは確実に忍び寄っている。 老いるとはどういうことであるのか。老いて、身体的に衰え、自分の意思で自分の身体がコントロールできなくなった時どうやって過ごす事が穏やかな満ち足りた人生なのか。 久しぶりに老いた両親を訪ねて、私自身深く考えさせられた。 私の両親は現在80歳代後半であるが、一応健在である。しかし、かなり身体的には弱り、中々思うようには生活できなくなってきている。 戦争、戦後と大きく価値観の変わる中、波乱に富んだ人生を懸命に生きてきたはずだ。その人生のなかで槌かつて来た知恵や生きざまは現代の社会では余り省みる者もおらず、そこから学ぼうという若い者たちは皆無である。これは、多くのこの年代の高齢者たちが味わっているくやしい思いであろう。 現代は余りにも生活様式や、価値観が変わりすぎている。 次の世代の息子や娘たち、即ち私たちは日常の生活に追われ、親の人生を思いやる余裕をなくしている。親たちの暮らしぶりを無価値なもの、古臭い時代遅れなものと否定して、省みないでいる。 このような老人が身体的に不自由な暮らしぶりとなった時、彼らが暮らしてきた、築いてきた暮らしぶりを誰が守り、維持すればいいのだろうか。親たちの価値観を尊重した暮らし方をどうやって守ればいいのだろう。 だだ、病院や介護施設に入れておけばいいのだろうか。これでは余りにも粗末に扱い過ぎているような気もする。 私が幼い時から、ずっとそこにある重厚な家具、ふすま、柱、などなど。弱って行く身体ではとても今まで通りぴかぴかに磨いたり、四季折々の花を庭先から摘んできて活けたりと、このようなごくありふれた日常が老いとともに出来なくなるということは、老い行く身にはとても辛く、寂しいことであると思う。そのような老い行く者の孤独や歩んできた人生に共感して、ともに生活できる若い世代が傍らにいて生活する事できるなら、どんなに心豊かに穏やかに晩年を過ごせるだろうか。 このような生活が今はとても困難になっている。そして、私たちの親たちは自分の生きてきた価値観(家父長的な家制度)をほぼ全面的に否定されたまま、新しい価値観や生活様式には余り馴染んではいない。 親たちの孤独を思うと、とても心痛む。 そして私がもっと老いて、日常生活が思うにまかせぬ程に身体的に弱ってきたら(その日は確実に来る)どうしたらいいのだろう。 私は、少なくとも親世代よりは自立した老後をイメージして、分をわきまえて人生設計をしてきたつもりだけれど。その時が来たら、若い世代に素直に受け入れられる穏やかな変わらぬ日常を過ごしていられるだろうか。心もとない。 とりあえずは、老いと立ち向かう気力を充実させ、日々を健康に過ごせるよう自分と闘おう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.04.16 18:24:16
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