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「ちゃんと泣ける子に育てよう」 大河原美以著 (河出書房新社)
この本は、現代の子供たちがなぜ幼い感情を抱えたまま、大人になっていくか。 親や教師にとって、「おとなしい手のかからぬ良い子」が思春期ごろから、急に変貌し、自殺をしたり、痛ましい事件をひきおこしたり、家庭内で暴力をふるって大人たちを困らせるのか、などなどの現代の子供たちの感情の発達過程で起きている異変についてを、明らかにしている。 そして、その原因は、幼児期の感情の発達が危機的状況にある。瀕死の状態にあると指摘している。 この指摘と解明は、中学生の幼さを指摘し、警鐘を鳴らしてきた私にとって、とても新鮮な発見であり、驚きであった。 私は、年齢にふさわしい言葉の発達の未熟、日本語の発達の貧困が、子供たちに幼さをもたらしていると考えていた。 しかし、それ以前の幼児期の子育てに原因があり、身体の生理的現象ともいうべき『感情そのもの』の発達停止、すなわち「身体のモノ」そのものに問題があるとは、驚きである。 大河原さんによれば、現代の世間や親たちは、幼児期に否定的な感情「悲しい、怒り、くやしいなどの感情」を育てることを怠っているという。これらのネガティヴな感情の「社会化」を体験することなく、小学生、中学生になっていくのが、現代の子育てだという。 それによって、幼い子の感情の発達が危機的状況にあるという。 赤ちゃんは、自らの身体的生理現象として、「人の迷惑も顧みず」大声で泣き、自分の要求を大人に訴える。母親がどんなに眠くとも、倒れそうなっていても、その赤ちゃんの泣き声に答えることに疑問を感じていない。母親は赤ちゃんを抱き上げ、オッパイをあげて、赤ちゃんに「安心感や安全感」を与えている。 大河原さんは、助けを求めれば助けてもらえるという身体が安心する力、安全を感じる力は、心が育っていくための重要な基盤だと言っている。 しかし、現代の育児では、2歳、3歳と年齢を重ねるにつけ、この基盤を幼い子どもに保障している親は少ないのである。 では、著者のここで言う「感情の社会化」とはどういうことか。 元気一杯の3歳の勇太くんの例をあげて説明している。 勇太クンがお砂場で夢中になってトンネルを作って遊んでいたとする。黙々と穴を掘ってわくわくと楽しくてたまらない。そこへ、少し年長の子が強引に勇太クンのスコップを奪ってもって行ってしまったら、勇太クンはどうなるか。 元気ものの勇太クンは、わぁーと泣いて、砂を撒き散らし、地団駄踏んでわめくのが、三歳児の元気坊やとしては当然の姿ではないでしょうか。 このような時、現代の親たちはどのように勇太くんと対峙するか。 平均的な親の態度は、「もう三歳なのだから、我慢できればいいのに」「男の子だから、それくらいのことで泣かないで」などと思い、「もう三歳なのだから我慢するのは当たり前」スコップを取られたぐらいで、泣き騒ぐわが子に親のほうが、いらいらしてしまうのである。周りの目を意識して、「よい子」に育てなくてはというあせりにもつながっている。 このような場面で、三歳の子に必用なことは、「くやしかったねぇ」「スコップとられてすごくいやな気持だったねぇ」と云う言葉がけである。 この言葉がけによって、子どもは、それまで楽しかった感情が逆流して、一気に不快な感情で身体がパニックになっている状態をきちんと「言葉」に置き換えてもらうことができる。自分の不快な感情のエネルギーが何であるかを自覚することで、「怒り」や「くやしい」という感情を育んでいる。 これが「感情の社会化」ということである。 「そんなことぐらいで、泣くのじゃないの」と言われてしまうと、身体を流れた不快な感情のエネルギーは、混沌としたまま置き去りにされてしまう。 さらに、現代の子どもは、不快な感情が沸き起こるような場面を親たちによって、先回りして人為的に常に回避するような子育てをされている。 子どもが泣いたり怒ったり、すねたりいじけたり、沈み込んだりしている時は、子どもの感覚としては、危機にさらされているときである。そのとき大きなパパやママの身体で抱みこんでもらうと、ネガティヴな感情にさらされていても安全でいられるという体験をすることになる。 その体験によって、怒りや、憎しみや、悲しみが溢れてきても、それを安全な感情として、コントロールしていける子どもに成長する。(今の親は、泣きわめいているときは、抱きしめない。悪い子として、放り出しておく) 混沌としたままの感情には、このようなプロセスを通してのみ、人間としての「感情発達」が保障される。 これが「思いやりのある子」に育っていく基盤なのである。 子どもが泣いたり、怒ったり、悲しんだりする感情の表出が歓迎されない状況が、日常的に繰り返されると、子どもはネガティヴな感情を社会化される機会を失ってしまうだけではなく、安全な感情としてコントロールできなくなり、攻撃的になったり、更に進むと、自分の身を守る防衛本能が働き、「感じなくなる」「封印する」という状態になる。 それは、「泣かないで欲しい」「ぐずぐずしないでほしい」「怒らないで欲しい」という親の願や、期待に答えることでもあるために、子どもは容易に「感じなくなる」「封印する」ということを達成する。 一見、親にとっては手のかからないよい子が誕生するのである。 このような幼児期を経て、小学校に入学してくる子どもたちは、親の前ではとても素直でいい子であるが、集団としての社会性は、3歳レベルの発達段階であり、学級が成り立たないほどの大変さなのだそうである。 更に、長じて、思春期になると、現在、私たちが見たり聞いたり、あるいは身近で体験しているような、痛ましい様々な問題行動が噴出する。 親が、一生懸命「よい子」を育てようとすればするほど、子どもは「感情の発達」を阻害されるという悪循環に陥っている現代の子育て。子どものために、良かれと思いやっていることが悉く子供を袋小路に追い込んでいる子育て。 この本を読んで、私は自分が育ってきたプロセスにも「よい子」であろうとした子ども時代があり、それを乗り越えなければ、自立して生きる大人になれなかった幾多の壁があったことを論理的に見直すことが出来た。そして、それらを乗り越えて来て今の自分がいる。 さらに、この本は、2歳の孫娘の育児支援をしている私に、とても参考になる内容であった。 孫娘コトネを、育ちつつある幼児として、「感情を育てる」ために、妥協をしてはいけないと反省させられた。 現代の爺さん、婆さんは「モノを次々与えて」孫が泣いたり、ぐずったり、怒ったりする感情をなだめている。手っ取り早い楽な手口である。 私も時々「ここで、おやつにおせんべいでもやれば泣き止むな」と思う時がある。 「アンパンマンのお面でも買ってやれば、機嫌がよくなるな」と思うときがある。 しかし、ぐっとその誘惑に耐えて、「泣きわめく」コトちゃんを抱きしめる。 でもその溢れんばかりの感情のエネルギーに付き合うことは、体力と根気がいり、この婆さんには一苦労なのである。 繊細にして生きるエネルギーが溢れている元気な2歳児のコトネの子育ては、それは大変な困難な時期にさしかかっている。 このような幼児を狭い密室で母子だけで向き合ってやることはとても無理なことである。 若い専業主婦のママに、社会が育児支援の手を差し伸べる必用をとても感じるのである。 この本は、大人の側が子供の感情のレベルに降りて行って、ともに泣きわめき、苦痛を味わって、子供の「感情」を大きく包み込んで、育てていくことの必用を訴えている。 大人の便宜や見栄では子供は育たないことを教えている。 若いパパやママはもちろんのこと、爺さん婆さんもこの本を読んでみて、今一度、現代の幼子の「感情の危機」について考えてみるのはどうでしょう。 お薦めの一冊である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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