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日々草

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2008.09.02
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カテゴリ:本の紹介

       
     稲泉 連 著  『ぼくもいくさに征くのだけれど』 竹内浩三の詩と死
                        (中央公論新社)

                 『日本が見えない』

    この空気
    この音
    オレは日本に帰ってきた
    帰ってきた
    オレは日本に帰ってきた
    でも
    オレは日本が見えない

    空気がサクレツしていた
    軍靴がテントウしていた
    その時
    オレの目の前で大地がわれた
    まっ黒なオレの眼漿が空間に
    とびちった
    オレは光素(エーテル)を失って
    テントウした

    日本よ
    オレの国よ
    オレにはお前が見えない
    一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
    なんにもみえない
    オレの日本はなくなった
    オレの日本がみえない

 この詩は、
「竹内浩三全作品集 日本が見えない 全1巻」 (藤原書店)(700ページを超える分厚い巻)
を編集した小林察が、刊行直前に、浩三が古ぼけた「ドイツ語読本」の余白に書き付けていたのを発見した。
この詩は、60余年の間、誰の目にもふれず眠っていた。
60余年経た現代においても強く人の心を惹きつける詩である。60年経た今こそ益々輝きを放つ詩ともいえる。まさに現代の日本そのものである。

 2001年に出版されたこの本によって、23歳の稲泉連が、1945年に23歳で戦死した詩人・竹内浩三に出あった。
国が戦争をしていることが日常であり、それ以外の日常を経験したことのない時代に生きていた浩三の少年期、青年期。その中にあって、浩三の家庭は、戦争は「どこか遠いところに起きている風景」として感じて暮らせる裕福な商家であった。彼の生家の宇治山田は、伊勢神宮の門前町として、むしろ戦争は、町に活気を与えていたのではなかったか。要するに、浩三少年は、戦争を知らない、伸びやかで豊かな少年時代を過ごしたといっていい。(この時代にこのような暮らしぶりは少数派)
戦火の足音は身近に迫っていたとはいえ、浩三の日大芸術科の東京での暮らしも、同世代の青年のなかでは、恵まれた青春の疾風怒濤の日々であった。姉・こうにお金の無心の手紙をだしては、金策してもらい、自らは「芸術の子」などと言って、自堕落な暮らしをしていた道楽息子であった。
当時のムラ的な地域性のなかでは、とうてい受け容れられない「困り者」の息子である。

このような青年が、赤紙一枚で兵隊となり、戦場へと赴いていく時、そこにどんな葛藤が在り、どんな心の飛躍を要求されたか。「大君のため、美しく、力一杯闘う」ために、どんな心の震えをつきぬけて戦場に赴いていったか。

 豊かな現代に育ち、青年期を迎え、「戦争」や「戦死者」というものは遠くにある点としてしか見えない「何か」に過ぎない稲泉連が、浩三の詩に共感し、感動したのは、何故か。
戦争を知らない若者に、かって日本が戦った「戦争」とは何であったのかを知りたいと思わせるほどに、浩三の詩に力があるのは何故か。
この稲泉連の本は、そんな疑問を解く道すじを私たちに示してくれている。
本の構成は 
    第1章 姉と弟  
         浩三の姉・松島こうから見た弟・浩三を描いている。
 姉・こうも戦時下にあっては、戦争は「どこか遠くでおこなわれているもの、平穏無事にすぎる日常がいつまでも続くという感覚で生活していた。勿論、戦時下の銃後を守る婦人としての役割を、怠りなく果たす優等生の主婦ではあったけれど。
予想していなかった「弟の死」、しかも南方で、遺骨さえない死。この現実に直面した時に、姉こうは、はじめて「戦争」と過酷に対峙したのではなかったかと私は思う。弟の帰らざる日々を姉・こうは、浩三の「書き遺したもの」と必死に対峙することで、その無念や後悔と闘ったのではないか。
浩三の詩や日記が若い稲泉連の目に触れたのも、この姉・こうの弟の「書き遺したもの」を大切に守り、遂にはその無念を世に知らしめようと思ったからこそだ。

    第2章 伝えられてゆく詩
        この章は、戦後、浩三の書き遺した作品に出合って、衝撃を受け、作品の持つ力強いエネルギーに感動し、作品を、後世に伝えようとしている人たちを描いている。
 
 「戦争一色の社会にあって、軍人として滅私奉公することを高らかに志す青年であっても、ふとした瞬間本来の自分に戻る。浩三の叫びのような言葉は、当時を生きた人々の偽りのない叫びであり、それは、人間本来のものである」と浩三の詩の発掘者となった一人の高岡庸治氏(松坂・本居宣長記念館館長)は言っている。
あるいは戦後社会のなかでの自分の生活のありように、強烈なパンチとなって、立ち現われた浩三の詩のエネルギーに、浩三の詩や小説や日記を編集し本にして世に残そうとした人々がいる。

あの日本の戦争は、戦後を生きている人々のなかにさまざまな形で、自己の生きざまとして延々と続いていた。このような大人たちの、それぞれの生きた具体性を通して、戦争を知ることは、若い戦争を知らない世代には最も必要なことではないか。

  
    第3章  バギオ訪問
        浩三が戦死したとされるフィリッピンのルソン島を稲泉連自身が訪ねる旅である。フィリッピン在住のとよ子さんという案内役によって、浩三が戦い彷徨したとされる地を訪問している。このとよ子さんというガイドが又素晴らしい。戦争の語り部として、深く胸痛む。
 この旅の終わりに近づいた時に、ガイドのとよ子さんは、フィリッピンでの戦争体験者や遺骨収集団に参加した遺族などの手記が集められた「山ゆかば草むす屍」という本のコピーを「読んでごらんなさい」と言って手渡した。それは、この本を自費出版した編集者のことば全文であった。
 若い戦争を知らない稲泉連は、自分の見ているフィリッピンの山岳風景と、「激戦地」に従軍した戦争体験者が見るルソンのそれとの落差の大きさを、思い知らされる。その痛みの落差に気付かされる。そして、浩三はルソンに詩を書きに来たのではなく、戦争に来たのだとという事実を胸に刻まなければと思う。

 戦争にたいして受身的で、自分のひ弱さをされけだして、苦悩した浩三が、兵隊として戦場へと赴くまでの心の軌跡を、入営を直前にしたある時には「日本が見えない」と、戦時下の日本について考えながら、「飯ごうの底にでも詩をかく」という決意へと自らを鼓舞させて、『ぼくのねがいは 戦争にいくこと ぼくのねがいは 戦争をかくこと ぼくが見て、僕の手で 戦争をかきたい そのためなら、銃身の重みがケイ骨をくだくまで歩みもしようし、死ぬることさえ、いといはせぬ。一片の紙とエンピツをあたえよ。ぼくは、ぼくの手で、ぼくの戦争がかきたい。』と自らに言い聞かせ、自らを奮立たせて、戦場の露となった。
23年の短い人生であった。

23歳の現代の青年・稲垣連は、2年半かけてこの浩三の生きざまをと作品を追い続けている。そのなかで、この気弱な文学青年が兵士として戦争に赴くまでの心の軌跡を、自らの心のなかでも温め、ともに成長している。
彼らを隔てる60余年という歳月は長い。
浩三の受容せざるをえなかった「戦争」は、はるか遠くに点となり、自らと共鳴しないもどかしさを感じながらも、彼の青年としての生きざまに共感し、「戦争」の無残と非人間性を深く自己の認識としている。その痛みを自らのものにしようとしている。

そして、浩三が戦火のなかで「詩人」としての生きざまを選び取ったその生き方に、力強い未来へのメッセージを読み取っている。


 稲泉連が2年半の取材の後、25歳のとき世に出した「ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死」というこのノンフィクション作品は、とても25歳の青年とは思えない、しっかりした構成、端正な文体のすぐれた作品である。しかも25歳の青年にしか出来ない、テーマの設定とそれへの取り組みにはとても好感がもてる。ぜひ若い人だけでなく、戦後を大人として、今日の社会の形成者となっている私たち年配者も読んでみるといい。

 この作品に登場する、竹内浩三やその同級生、姉・松島こうなどは。私の父や母と全く同世代である。とりわけ姉・こうには、私自身が強い興味を抱いた。姉・こうの歩んでいる人生を思うと胸に響くものがある。(稲泉連とは違った視点から読み解いてみたい人物である)
戦争で日本が負けるなどと思ったこともない女たちが、夫や息子や兄や弟を唐突に戦争で失ってしまう悲しみ。悔しさ。そんな女達だけが深刻に戦争と向き合って、戦後を生きてきたのではないか。他の者たちは、「骨は骨」として、まるでかかわりのないこととして、戦後を生きているのではないのか。
 今、日本の社会は、深く混迷している。
 「日本はみえない」
 そして、その政治を担っている人々は、この浩三の苦悩した「戦争」を知ってはいない。知ろうともしていない。
 まさに「骨はうたう」にあるごとく、「白い箱にて 故国をながめる  音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど  故国の人のよそよそしさよ  自分の事務や女のみだしなみが大切で  骨は骨 骨を愛する人もなし  骨は骨として 勲章をもらい  高く崇められ 誉れは高し  なれど骨はききたかった  絶大な愛情の響きをききたかった …  ああ 戦死やあわれ  兵隊の死ぬるやあわれ   こらえきれないさびしさや  国のため  大君のため 死んでしまうや その心や」
この兵士たちの寂しさや哀しみを、わが身の悲しみとして受け止めることをしないで、今日の日本はあるのではないだろうか。我が息子の死の悲しみや孤独として、戦死した人々に思いはせる大人たちで日本が満ちていたなら、今日ある日本とは異なる日本を再建していたのではないだろうか。

 戦争をしたことで、次の世代は何を受け継いでいかなければならないかを、この若い稲泉連の作品は私たちにつきつけている。


 昨日、福田首相が唐突にその座を投げ捨て辞任した。そのすぐ前の安倍某という「美しい国」をヒステリックに絶叫していた元首相も、自分勝手に急にその職務を投げ出して辞任した。これらふたりの父親たちも戦後の日本を作ってきた政治家たちであった。彼らは戦死者たちや戦争遂行者たちを英霊として拝みたがっている。「国を守る」とか「国を愛する」とか「美しい日本」とか。またぞろ過去の亡霊を持ち出して、国民を狩り出そうとしている。さらに「国際貢献」とかいう言葉まで持ち出してきた。イラクでアメリカが行なっている戦争など「イラクの自由作戦」と命名されている。偉そうに、威張って「イラク民衆を解放して、イラクに民主主義と自由を」などと若者を駆り立てている。
 
こんな時代だからこそ竹内浩三の詩は、現代に通ずる「何か」を持っている。
彼の持つ詩のエネルギーは60年経た今一層強力となり、輝き出している。
 
 戦争下の日本とその本質においてなにも変わっていない今の日本。
 
 その路線は今、混乱と崩壊にやっと直面しているとはいえ。






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最終更新日  2008.09.03 15:43:54
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