カテゴリ:マカオ今昔物語
マカオの「アクロポリス」 聖ポール天守堂跡の小高い丘 恋愛巷という洒落た名前をもつこの路地の奥まった所に 聖ポール天守堂のファサードが垣間見える そして、その路地は美しい石畳 この石畳の通りの終わりは 聖ポール天守堂前の広場 大三巴街 天守堂に通じる街 奥に見える天守堂の巨大なファサード 天守堂に登る階段前は カルサーダスの広場 小高い丘の上にある 聖ポール天守堂跡 1602年から1640年にかけて聖母教会として 建築されたゴシック様式の巨大な教会 建造にあたっては、中国人は勿論のこと 島原の乱で祖国を追われた日本のキリシタンも かかわったという。 この小高い丘には 1609年、東洋初のキリスト教大学となった学院があり、 後には日本人キリシタンのための専用修道院が開講されていた。 (日本のキリシタンたちの歴史がこのマカオと一体になって発展していたとは とても感銘をうけた。日本の百姓たちが、 狭い村世界のなかに益々閉じ込められていたとき、 このように世界に窓を開いて生きていた日本人たちがいたとは素晴らしい。) さらに、天守堂の右手にはモンテの砦がある。 モンテの砦 1617年~1626年にかけて、イエスズ会との協力で築かれた マカオ最強の防御施設 砦には、大砲、軍部宿舎、井戸、2年間の攻撃に耐えうるよう 兵器工場の貯蔵庫がある。 (大砲のレプリカ) この丘の 聖母教会、聖ポール大学、モンテの砦など 全て「イエスズ会」の建造物であり、 当時にあっては、この丘は まさに マカオの「アクロポリス」であった。 聖ポール天守堂と並んで建つ 小さな中国式寺院 ナーチャ廟 ナーチャとは 母親のお腹に3年半もおり、その間に道教の僧から 特別の力を与えられた神童。 西遊記にも登場するやんちゃな男の子の神さま。 1888年、この地域に疫病が蔓延したため、その厄払いに この廟が建てられた。 (キリスト教とは全く異質なこのような信仰が同時に存在して 共栄するというマカオの特異性、雑草のようなたくましさとでも言うべきか。) ナーチャ廟&旧城壁 1569年、ポルトガル人の居住が始まった頃に造られた 古い城壁。 (ポルトガル人は自分たちの生活圏を守るために 周囲に城壁を築く習慣があった。) この城壁の様式は西洋風、材料と手法は東洋風。 この城壁にも西洋と東洋の文化が融合し、共存している。 即ち 土砂、わら、カキの貝がらを混ぜ木製の枠に流し込んで押し固める。 時間の経過とともに壁は強固になる。 このような城壁は、 西洋の石造りのように大砲の弾をはじき返すのではなく、 呑み込むようにとどめる。 西洋の石造りより防御に適しているという。 その城壁の前の広場 ポルトガル独特のカルサーダスの石畳がここにも見られる。 観光客に混じって、犬を散歩させている人がいる広場。 3匹も犬がおり、ほほえましい。 94%が中国人であるというマカオ 世界遺産に指定されている歴史市街地区は ほとんどがキリスト教文化の建造物や広場である しかも、そこでは日常生活も営まれている。 ということは、ほとんどの中国人は このキリスト教の文化と深くかかわり受け入れて 生活しているのだろうか。 ナーチャ廟にみられるような 道教の寺院も所々にあり 街に溶け込んでいるという。 この共存の仕方が私には理解できないものがあるが。 ポルトガルの長い統治が残したものは 観光資源としての歴史的な市街地区だけではなく 精神的な文化として、 中国人のなかに同化してしまっているのだろうか。 私はこの点をもっと知りたい気がした。 ポルトガル本国のカルサーダス ナーチャ廟&旧城壁前の広場の石畳は この下の写真・ポルトガル本国のカルサーダスと全く同じですね。 次回、マカオ世界遺産(その4)はカモンエス広場を予定しています。 このシリーズ7回目となりました。次回で完の予定。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.04.17 22:24:47
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