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2003年05月17日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
一部で誤解がある(?)ようなのでちょいと言い訳から始めますが、あっしは隠棲者と称して日常生活についてはこれといった出来事もないんで「日記」のネタにはしていないんですが、それはネット上での個人的なことについても含まれているわけで、あっしが過去に犯してしまったような失敗を除けば、一切「日記」で取り上げていないし、これ以降も取り上げるつもりもない。そりゃモチロン生きていれば何らかのインスピレーションを日常から得続けているんだし、情報のソースについて混濁が生ずることもあるでしょう。それはあっしの文章力の至らないところで、大目に見てもらうしかないんですけどね(^^ゞ

まぁ、あっしのネタ元と言うとテレビ、新聞、ネットにおけるニュース記事やここのお気に入りにも入れてあるホムペのコラム、時折紹介するゼミのセンセのホムペやメルマガ、それと小説やマンガってことになるのかしら?そういった意味で、同じ新聞を読み、同じホムペを巡っていれば、「日記」の元ネタがなんであるのかはわかると思いますが、ネタ元とあまりにも意見に隔たりがある場合には一方的な批難にしかならないことになりかねないんで、敢えてネタ元を明かさないこともあります。具体的な例を挙げるなら昨日の「日記」は最後のほうに引用した篠田真由美の本のあの部分をどうやって伝えたらよいかってのを模索して、結果としてああいう形になっちまったんだけど、そういう意味では「十二国記」のほうはどちらかと言うと前振りなんですよね(^^ゞ

それはそれとして、あといくつかネタ元になったものがあって、それは15日の朝刊にあった「NTT社内VB元社長が売上金4000万円を流用」と言うものだし、16日の朝からニュースで流れていた青森県知事の辞任だとか、中島梓(栗本薫)の16日の「更新日記」で挙げられている「通り魔」だとかだったりするんです。そういういくつかの欠片・ピースを一つのラインにまとめていくのに「十二国記」の祥瓊というキャラってのが使えそうだからそこを導入にしたんだけど、やたら長くなって、当初の目的である引用までいけるかどうかドキドキしてたのも事実です。と言うか、あの引用を読んだときのショックってケッコウありましたからね。言い換えれば「喉もと過ぎれば暑さ忘れる」ってことですけど、どんなに反省して見せても同じ事を繰り返してしまうってのが自分にもかつてはあったから他人事じゃないんですよね。それに実はもう一つ引用したいのがあって、ついでに引用します。

「おまえがほんとに後悔して、今もまだずっと後悔してるなら、それを謝って赦してもらってさっぱりしようなんて思うな。忘れるな。ずっと一生抱えて生きろ。そうすればおまえはもう二度と、同じような間違いはしないで済むんだ。違うか?」(篠田真由美「angels-天使たちの長い夜」より)

これもまたガァ~ンと来るような言葉ですよね。一歩進むと、喩え赦してもらっても自分は決して自分を赦したりしない、それこそが間違いを再び犯さないための自戒になるからだ、ってことになりますよね。そりゃ、赦されないことで思い悩むのはマイナスにしかならないけど、これ以上マイナスに落ち込んだりしないように、自分の本能の赴くままにのみ行動することを止め、他人との協調を心がけることで却って自分の望んでいたのに近い状態になるんだと思えば、プラスに転じるでしょう?荒野の真ん中で一人過ごすのではなく、多くの人々の只中で暮らしていくのなら、自分らしさを見失わないことも大事だけど、周りの人との関係を悪くしてしまったらマズイよね。失敗したら別のところへ行けばよい、なんて思う人もいるかもしれないけど、そういう人ほどどこへ言っても同じような場面で同じような間違いを犯し、再び逃げ出さなきゃいけなくなるんですよね。それよりも逃げ出さずに自分の非を認め、正し、改めることで再びコミュニティに参加できるように努力するほうが建設的ではないか、って思う。

最近頓に思うのは「ルールに違反していないから良いだろう」ってのが変だなぁってこと。決まりを守ってさえいれば誰も文句が言えず、どんなことも我慢しなきゃいけないから、新しくルールを作って厭な奴を追い出そうってことをしがちだと思いませんか?昨今の国会での「議論」などは何もかもを法律でどうにかしてしまおうという「法律万能主義」とでも言いたくなるものです。そもそも、何のために法律があるのかってのを忘れていないか?法律は守るためにあるんじゃなくて、法律は我々の暮らしが混乱するのを防ぐための手段に過ぎないんです。根本にあるのは自分の生命財産を保証してもらうために互いに生命財産を保証しあうってことで、互いのことを思い遣ることがこのスタートラインにはあったはずです。他人を思い遣ることが自分もまた大切にしてもらえることだってのは「情けは人のためならず」と言うのと同じですね。

このあたりのことがノウハウ本やハウツー本の氾濫で「ルールを守りさえすればよい」という「仏造って魂入れず」な、無味乾燥の空虚で形骸化した社会に変えてしまったのでしょう。今の日本と言うのは「十二国記」のクーデター前の芳国や傾きつつある柳国に近い気がしてなりません。法律で何もかもが上手く行くなんてのは幻想で、もし仮に上手く行くとするならば、法律の基にある理念が民の理解を得ていること、法律が理念に基いて作成されていること、法律が官吏によって理念通りに執行されていること、民が法律の執行に従うこと、官吏の法律の執行を監視し正すシステムが機能していること、などなどが十全に働く社会ってことになるでしょう。少なくともこの地球上にはどこにも存在していないみたいですがね。

それはそれとして、我々は社会の一員として生きているし、これからも生きていかなきゃいけない。だとすればなぜ我々が人間たり得るのかと言う根本のもの=モラルを忘れてはいけないでしょうね。モラルって人間として認められるために最低限のものであると同時に、これ以外は必要ないとさえ思えるものでもあります。ある意味このモラルについてずっと「日記」を書いてきただけかもしれません。

んと、話が飛びまくって(?)しかも長くなりすぎたんで、今日はこの辺で…(爆)





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最終更新日  2003年05月17日 14時50分08秒
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