夜9時、老母の一日の看護がほぼ終わり、明朝6時半までしばらく自分の休息と睡眠の時間となった。近頃はテレビを見ることもなかったが、NHK・BS2で「フランク永井の歌の世界」を途中から見た。
私の子供の頃、我が家に歌謡曲が流れていることはほとんどなかった。が、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』は私が小学校6年生のときのヒット曲で、どこかで耳にしたのをいつの間にか憶えてしまっていた。そしていまだに忘れないちょっとした思い出が絡んでいる。
数年前に記憶をたよりに八総鉱山回想私記を執筆し、簡易製本して知人にさしあげた。その中に、こんな一節がある。
「・・・昭和31年だったか32年だったか、火星が大接近したとき、私たちは夜中に高橋先生と一緒にちょっと高台になっていた床屋さんの辺りに天体望遠鏡を持出して、かわるがわる火星を観察した。先生は後に、学校の事務員をしていた級友の正嗣くんのお姉さんと結婚した。ふたりのデートはもっぱら放課後の先生の教室だった。睦まじく楽しそうに会話していた。私は先生たちに〈有楽町〉とニックネームをつけた。フランク永井の『有楽町で逢いましょう』が流行していて、それにちなんだニックネームだった。私たちの担任の孝男先生が、私たちのささやきを怪んで、ある日の休み時間に、明くんだったか悟くんだったかを廊下に呼び出し、〈有楽町〉のことを問いただしていた。彼はその名付け親が私であることを告げたのかどうか。後日、孝男先生も〈有楽町〉と言っていた。私たちと孝男先生とは共通の秘密を持った。」
なぜだか分らないが、フランク永井の歌は私の思い出のあちこちにちりばめられている。たしか中学2年頃のヒット曲だと思うが、リバイバル・ソングの『君恋し』などもそのひとつだ。特別な映像が記憶から蘇って来るわけではないが、そこはかとなく心がうずくのである。当時、何か心が動揺するようなことがあって、それが何であるかはすっかり忘れているのに、歌を聞くとその余韻のようなものが幻のように心の底で揺らめくに違いない。
そしてまた、かつてきちんと傾聴したこともないのに、私はこの人の歌をくちずさんでいる。健康のためにとサイクリングをはじめた当初、多摩川のサイクリング・ロードを登戸近辺から時に昭島まで往復しながら、『霧子のタンゴ』や『羽田発7時50分』や『夜霧の第二国道』や『お前に』などを、誰も人がいないことをいいことに大声で歌って「肺と腹筋を鍛えて」いたのだった。どこで覚えたのだろう。それが不思議であった。
過日、finesさんの音楽サイト「途中下車前途有効」でフランク永井の特集をやっていて、私は思い出をあたらしくしたばかりであった。そして今日のBS放送だった。映像とともにじっくりフランク永井の歌の世界にひたったのは、もしかしたら私は初めてかも知れない。おかげで、『羽田発7時50分』の正しい歌詞を知った。「星も見えない空 さびしく見つめ」を、私は「何も見えない夜、さびしく見つめ」と、また、「待っていたけど 会えないひとよ」を、「待っていたのに 会えないひとよ」と歌っていたのだった。
・・・さてさてもう寝よう。明日もまた忙しい。
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Last updated
Nov 10, 2009 06:17:56 PM
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