島原の乱 一揆側、唯一の生存者
島原の乱において原城が落城した時、1名を除いて全員が幕府軍により殺害されたといわれています。その助かった1名は、山田右衛門作という人物でした。彼はもともと一揆勢に参加する事に気乗りがしなかったそうですが、妻子が人質にとられたため、仕方なしに参加したそうです。ちなみに彼は南蛮絵師でもあり、有名な一揆軍の旗も彼が書いたそうです。しかしもともと一揆軍に参加することを本望としていなかった彼は、幕府側に内通し、矢文により一揆軍の内情を幕府側に知らせる役目を担うことになります。ところが、ある時矢文が幕府側に届かず、一揆側の知るところになり、右衛門作は捕らえられ、妻子は処刑され、彼自身も処刑されることになってしまいます。しかし、その後幕府軍の原城総攻撃が始まり、一揆軍は皆殺しにされ、右衛門作も殺されかかりますが、矢文を見せ、なんとか助かることになります。その後は江戸に行き、隠れキリシタンの探索をする密偵のような仕事をしたといわれていますが、その後再びキリシタンに戻ったともいわれています。その後の足取りはよくわかっていません。彼の内通理由に、後世に一揆側の資料を残すために、あえてその役目をしたという説もあります。真偽のほどはわかりませんが、つい最近、寺田屋事件で坂本龍馬が幕府の捕吏に襲撃された事件の幕府側の資料が見つかったように、どちらか一方のみではなく、勝者敗者など、両方のそれぞれの立場から見たそれぞれの見解や資料は、非常に貴重な物です。彼の残した資料は、島原の乱における一揆側から見た‘島原の乱’として現在でも非常に価値あるものとなっています。島原の星ー悲劇の絵師ー山田右衛門作ブログランキングに参加しております。よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m