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カテゴリ:読書
全8巻 司馬遼太郎(文春文庫)
普通なら10~20代で読む作品なのだろうけど、40代半ばの私が何となく思い立って「竜馬がゆく」を読み始めた。(現在4巻まで読了) 実は、あまり集中力がないのと記憶力(特に人名に関する)が弱いのとで、文庫で全8巻というような長編小説は読む前に敬遠してしまう方だ。 ところが読み始めるとおもしろい。若い頃に読むとたぶん人生観が変わる(中には勘ちがいもあるだろうが)だろう。 描かれている竜馬像は坂本龍馬をモデルにしたフィクション(「りょう」の字も違う)である。当然、幕末史も司馬遼太郎的解釈によるものということになるが、実にすっきりとわかりやすい。 幕末史のわかりにくさの一つに「尊皇攘夷」という運動がある。対立するのが「佐幕開国」だが、「尊王」という言わば革新的運動と「攘夷」という守旧的運動が結びつくなんてどういうこと?と悩んでいる内に教科書では明治維新になってしまったような気がする。(きちんと勉強していない私が悪いのだろうけど) もう一つのわかりにくさは「藩」あるいは「幕藩体制」というものだが、この作品を読んでいると、江戸時代までは「日本」という国は存在しなかったのだとわかる。「くに」とは「藩」のことであり、藩も幕府も自らを守ることに行動の原理がある。天皇(朝廷)はその体制を権威づけるために存在して(させられて)いた。 農業(米)に寄生することで成り立っていた幕府がしだいに弱体化し、いち早く工業化を始めた雄藩がそれにとって変わろうとする。「尊皇攘夷」とは、弱腰外交で開国をすすめる幕府を「朝敵」とするための論理である。 したがって「尊王攘夷」そのものには合理性も正当性もない。尊皇攘夷派の長州藩が薩摩藩と佐幕派の会津藩によって京から追放された(八月十八日の政変)際には、長州藩が「朝敵」の汚名を着せられるといった具合である。「足利時代数百年、楠正成はずっと朝敵であったぞ。なぜか。負けたからじゃ」と竜馬は説く。しょせんは「勝てば官軍」の論理に過ぎない。 ところで、天皇に関する禁忌が微妙に存在する教育現場で「尊皇攘夷」を過不足なく教えるのはひょっとしたら難しいのかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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