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2009年04月08日
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「私が時の呪文を解いたら、まず彼の傷を癒しなさい。遺体とはいえ、血が流れれば消耗してしまうからね。
同時に彼を呼び、肉体と統合させるのだ」

ルシフェルは言った。銀巫女の逡巡を見通したごとく、穏やかに続ける。

「彼が今療養中であることは知っているよ……強制的なディープスリープから、ようやく半覚醒になったばかりだということもね。
肉体と統合すればエネルギーが増大するから、それは問題ないだろう。
もちろん、身体の傷を治せればだが。……できるね?」

漆黒の瞳が信頼をこめて頷きかけたので、銀巫女はこくんと首をふった。

ふるえる白い指先が、そっとデセルの傷痕をなぞる。
彼が自分を責めることはないと痛いほど知ってはいても、流された赤い血は氷ごしでも痺れるように指先を刺した。
それでも右肩と胸の傷の位置ににしっかり手をあてて、銀髪の巫女はルシフェルを見た。大天使がもう一度頷き、その黒いマントを大きくひるがえした。

マントが氷柱に触れながら通りすぎると、もうもうたる蒸気をあげて氷が溶けていく。

(デセル……デセル。お願い、ここへ来てちょうだい)

歯を食いしばって手を傷に当て続けながら、銀巫女はデセルを呼んだ。
眠っていたはずの遠い意識の海から、すぐに応答が感じられる。喜ぶべきその早さも、銀巫女に想われることの申し訳なさをひきおこした。

(デセル、ここよ……)

意識の半分を呼びかけに使い、もう半分で彼女は傷の治療にあたった。
ルシフェルの言った通り、魔法が解けると同時に傷から血があふれだす。死んだ身体から血が流れるなど三次元ではないことだろうが、器もまたエネルギーの塊であり、それが溶けてゆくということなのだ。

今まで積み重ねてきた技術の粋をつくして、銀巫女の指がデセルの傷を癒してゆく。三次元から離れかけていた肉体の傷はみるみるうちに塞がり、着衣の穴と染みまで拭うように消えていった。


呼ばれたデセルが目を開けたとき、最初に見たのは心配そうに覗き込むすみれ色の瞳だった。
愛するその手が自分の身体に置かれているのを知って、一瞬顔が燃えるように熱くなる。

「デセル、大丈夫? 痛いところはない?」

音楽的なソプラノだ、と彼は思った。銀菫の魔法陣がよく似合う。
うっとりと目を閉じかけ、彼女の後ろにルシフェルがいることに気づいてあわてて身をおこす。

身体が重い。
疲れ、ではなかった。エネルギーは今までより満ちている感覚がある。その質感が以前より重いのだ。

銀巫女とルシフェルの顔を見比べ、デセルは手を握ったり開いたりしてみた。身体が持っていた神剣がすべり落ち、ようやく彼は何が起きたのかを悟った。

祭壇から飛び降り、二人の前にひざまづいて頭を垂れる。
神殿の最期にデセルをそそのかしてきた悪魔。自分の肉体は彼らに奪われ保管されていたと思っていた。事実、恩着せがましくそう聞かされていたのだ。
だが実際はルシフェルとレミエルの手によって、彼がもっとも愛する女性を護るように安置されていたばかりか、こうして統合まで果たされた。
デセルにとっては、どんなに頭を下げても足りない気持ちがするのだった。

「頭をあげなさい」

ルシフェルの深い声が、彼の頭上から投げかけられる。恐縮したデセルがおそるおそる顔をあげると、天使二人と巫女がそれぞれ微笑を浮かべて彼を見ていた。

ほっと身体の力が抜ける。甚大な謝意をあらわすために、彼はもう一度深く深く頭を下げた。

「デセル、次はおまえが彼女の身体と魂を統合させるのだよ」

静かな声に、銀巫女とデセルが同時にルシフェルを見た。銀巫女がかすかに首をふったのに彼は気づいた。

自分にもできるところを見せたくて、デセルははい、と強く答えた。ルシフェルが頷く。

デセルは、あらためて銀巫女の身体が眠る氷柱を見た。その黒い髪、哀しみの色が痛々しい。
自分にできるのだろうかという不安と、どうしてもやりとげたいという使命感が彼の中で戦っていた。

「いいかね、デセル。おまえには辛い仕事になるだろう。
私達は制約により、直接手を貸してやることはできぬ。それでもやるかね?」

もちろんです、と躊躇なくデセルは答えた。
ルシフェルに従って氷柱へ触れながら、銀巫女が悲しげな瞳で彼を見た。

「ごめんなさい」

その言葉の意味を問おうとする前に、ではいくぞ、と天使のマントが翻った。


氷柱が溶けはじめ、巫女の身体が降りてくる。昔と今の白い手が触れ合った瞬間、まぶしい光がデセルの目を焼いた。

なにかに促されるままに腕を前に差し出す。そこに重さがかかり、花の香がして彼は愛する人を腕に抱いているのを知った。

なにがごめんなさいだったのだろう、と考える間に、デセルは自分の腕が濡れてゆくのを感じた。
腕に抱く華奢な身体の、首筋と右肩と胸に大きな傷があり、そこから出血している。
流れでる血は真珠色のローブをあっという間に朱に染め、恐れと驚きで動けずにいるデセルの腕からしたたった。

とにかく止血しなければ。デセルは小さな魔法陣をいくつも造りだして傷口に当てたが、どれも効果がない。

「神剣を当てなさい」

レミエルの言葉に、飛びつくようにしてデセルはかたわらの神剣をとり、血のあふれる傷口に当てた。
すると血は止まった。
だが傷はそのままで、銀巫女の瞼が開くことはなかった。

巫女姫の体温が失われてゆく。
腕の中で冷たくなってゆく愛する女性。
自らを捨ててなお護りたかった、その存在。

デセルは血溜まりで咆哮した。
自分がかつて何をしたのか、残された者がどう思うか、今骨の髄まで彼は知ったのだった。

泣きながらかきいだく身体は動くことがなく、だらりと垂れた指は彼の傷を癒してはくれない。

「巫女様……巫女姫様」

呼びかける声もむなしく、すみれ色の瞳が開かれることも、あの優しいソプラノが彼の名を呼ぶことももはやなかった。
助けを求めて見回しても、すでに天使達の姿はない。

デセルは血まみれになって、銀巫女の身体をきつく抱いていた。
そうすることだけが、彼女の魂をつなぎとめる術であるかのように。

だがその腕の中で、華奢な身体の輪郭が次第にぶれはじめる。
さらに力をこめる腕をあざ笑うかのように、亡骸は光をはなち……そして、四散した。

「あ……あ」

鳴咽することすらできずに、デセルは呆然と赤く染まった己の腕を見た。














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最終更新日  2009年04月08日 19時35分43秒
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