さて、前回記事等で紹介した札埜実践(「国語としてできること」)は、近年注目されている欧州発の「シチズンシップ教育」の典型だ、と言えるのでしょうか。
確かに、そのように主張することも可能でしょう。しかし、私としてはむしろ、私たちが生きているこの日本社会における過去の営みとの共通性を強く感じるのです。
ここでは主に『教室をひらく』(中内敏夫著)で述べられて いる「過去の取り組み」と似た点を見ていきたいと思います。
中内は『教室をひらく』の第4章「目標づくりの組織論」のなかで、1960年代以降急速に進められた「巨大開発」(国土総合開発計画)の弊害に向き合っていった事例として、「『環境権』その他いくつかの人権概念を発展させた地域住民運動」に注目します。そして、この運動に関わりつつ学んでいった教師たちの実践(新たな教育目標の設定・実現)を分析し、その意義を明らかにするのです。(詳細な内容はこちら)
私は「札埜実践」と「教育課程再編成に大きな影響をあたえた公害学習運動」との間に大きな共通点を見るのです。全国各地の教師たちが、地域で活動する人々との出会い、運動との出会いを通して自らの姿勢や教育内容を問い直していったように、札埜実践に登場する生徒たちは、「作品」や「生身の人間」との出会いを通して「学びを思想化」していきます。
それらは、1)「具体的経験」の厚みを充分に踏まえた実践・学習であること、2)「上から」ではない「生活者」の営みの側から学びが深まっていること、この2点において欧州発の「シチズンシップ教育」を超えた性格を充分備えている、と考えるのです。
さて、公害学習運動に取り組んだ教職員や札埜氏の設定した「目標」は、端的にはどのように表現できるでしょう。個々人の権利(人権・生存権)を支え、実質的なものとして創造していく力(「平和的な国家及び社会の形成者」としての力)を一人ひとりが身につけていくことではないでしょうか。
その際、例えば地域住民運動と「出会い」、水俣病訴訟原告と、原発震災の被災者と、反貧困ネットワークのメンバーなどと直接間接に「出会う」こと(広義の「教材」と出会い、深く考えること)は、「モノ、コト、ヒトと相互交渉をしつつ世界を構成し、それに関与・参加していく(世界に批判的に介入していく)」上で、重要な契機になっていくと考えられるのです。
ところで、上記のような視点はこれまで全生研、高生研が追求してきた生活指導(具体的な生活を通して子どもたちは学び成長していく)という視点とどのように絡んでいくのでしょうか。
教育学者の故宮坂哲史は『生活指導の基礎理論』(1962年)のなかで、戦前・戦中の「生活綴方」運動もふまえながら、教科指導と生活指導の統一の契機について次のように述べています。
国民教育の統一的課題である人間像が「それぞれ固有の任務をもつ両者の統一」を要請する、と。つまり、「平和的な国家および社会の形成者」の育成という目標が、1)社会や自然に対する科学的・芸術的認識力(札埜実践はこの力を高めている例)と、2)民主的な集団的諸能力という二つの基礎能力の統一的形成を要求する、というのです。〔( )内は引用者〕
この一例だけをみても、「具体的生活や経験を重視しつつ『社会の形成者』としての力を育成していく」という視点は、50年以上前から明確に提起されていることがわかります。
いま、必要なことは、近年注目されている「シチズンシップ教育」の流れに乗ってこの言葉を多用することよりも、生活そのものの厚みや、これまで積み上げられてきた実践の厚みを充分振り返りながら、「18歳を市民に」する教育実践を豊かなものにしていくことだと考えるのです。
教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに
(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
(開店休業中だったアメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。
『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)