どん底・・・逃れられない呪詛?
「『意気地なし』を勇気づけることは誰にもできないのよ。」
「『意気地なし』は自分を不幸にするか他人を不幸にするか、どちらかでしかないんだから」
・・・
「『意気地なし』でなくするのが愛の力ってもんだ」
「NO!『根っからの意気地なし』に対しては、愛は何もできないわ。愛しても愛されても。いつも格好ばかりつけて、逃げ回っている奴には」
プリ・マドンナ『鮎村尋深』を
主人公にする
3部作最終話。
森雅裕著『蝶々婦人に赤い靴(エナメル)』である。
長崎の
大きな造船会社一族御曹司との
結婚式直前の鮎村尋深。
「婚礼衣装の『草履』を受け取り忘れたから持ってきて」
と
彼女から電話が入る。
そこで、
腐れ縁の相手役
『守泉音彦』は・・・
「世の中には、
裏切ってくれた恋人に
新婚旅行用のスポーツ・カーを貸してやる男もいる。
これは、
親切ではなく阿保だ。
だが、俺と尋深は恋仲ではなかったのだから、草履を届けるくらいは親切でも阿保でもなく、
律儀ゆえの行動だ。
友情十二年目の最後に、
宅急便役くらい
引き受けてやる・・・」
と
長崎に向かう。
・・・勿論「新幹線代は請求する」といって。
それが・・・
「蝶々婦人のモデルになった」女性の
娘(当然に婆さん)と
「刀剣」に振り回され。
戦時中、長崎の捕虜収容所で開催された
オペラ『蝶々婦人』復活公演の
前日、
稲佐山のゴンドラ乗り場の前で
二人が交わす会話が
冒頭部分である。
そして・・・
「蝶々婦人のモデルになった」女性の元に、
妻を伴って現れた元恋人。
女性が自殺するときに、
元恋人へ書き記した手紙。
――貴方に必要なのは『愛ではなく志(こころざし)』です。
あなたの脆さは志をお持ちにならないことに根ざしてゐます。
志を持つためには、
「欲することに従ふ」のではなく、
「運命から目をそらさず」、
生命を育てねばなりません・・・――
私は、
前回の日記で
宗教社会学者の新聞記事について書いた。
でも、
実は彼の文章には
続きがあったのである。
「・・・日本宗教は堕落のきわみにあるような印象さえ抱きかねない。」
「インターネットが
こうした『心情吐露』の
新たな場を提供したとすると、そこでの遣り取りが、人をどういう宗教的世界に導いていくのか。
インターネットが物心ついた頃から当然のごとく存在した若者が増えていくなか、この点は非常に気になっている。
」
この
1週間の間、
私はズッと・・・
「自分を不幸にするか他人を不幸に」し、何時も逃げ回っている『意気地なし』。
『意気地なし』でなくなるためには『愛』ではなく、『志』を持つこと。
それが出来なきゃ、
ネットで『心情吐露』が関の山。
・・・
この突き付けられた『文字の刃』から
逃れられないでいる。
だから
前回は、
オチャラケて遊んでしまったのだが。
如何しても逃れられない呪詛の文言(ことば)に、
私の『型紙』が
燃え始めている。
最後の場面、
帰京の飛行機の中で、
音彦君が不図漏らす言葉。
今の
私の唯一の『お守り』である。
・・・オペラ歌手にさよならをいう方法は、いまだに発見されていない。