テーマ:たわごと(26756)
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京都市さんの野良猫エサやり禁止条例に
YAHOO!さんが、意識調査をしている。 それで 「エサを与えるのなら徹底して最後まで面倒を見る=飼うべきでは。 それが出来ないのなら最初から関わらなければ良いと思いますが」とか。 反対に 「餌をやるから増えるのではありません。不妊手術をしないから増えるのです。 人間にしかできない繁殖制限を何よりも優先させるべきです。 飢餓に追い込み減らして行こうというのは本末転倒ではないでしょうか? 野良と言われる、飼い主のいない猫の命を軽視する考えには同調できません」とか。 賛成にしても、反対にしても ともに、どうして、こう、上から目線? ほんと 生命(いのち)を、何だと思っているのやら。 「徹底して最後まで面倒を見る」って、さ。 確かに 文面は、きれいだよ。 それに ダレだって思い付く…失礼、一定、説得力のあるフレーズかも知れません。 けど なら、どビンボ家庭は子どもを産むな!ってこと? 世帯年収300万円以下で 3人も4人も、子どもを育てられるハズがない。 そんなこと ダレが、どう考えたって判るでしょう? だから 徹底して最後まで面倒を見られるか?どうか それを 前提条件に、判断基準に、しちゃったら あたしやあなたは、ひとりの子どもも産めなくなる。 それで、いいんだね? それに。 「不妊手術をしないから増えるのです。 人間にしかできない繁殖制限を何よりも優先させるべきです」 そうでしょう。そうでしょう。 ダレかを特定して、強制的に子どもを産めなくさせる、なんて 神さまだって、やらないでしょうから、それこそ、人間だけしかできません。 ただ、どちらかと言うと。 平気で、そう言える感性 いや、速攻で、それが正義だと信じちゃうヒトこそ そういう遺伝子、とっとと隔絶しちゃった方がいい、ような。 他人(ひと)が言った、表層的な美辞麗句ばかりに心酔して それが、本来、どういう意味を持つのか? まるで考えようとしない。 そういうヒトって 『葉隠(はがくれ)』なんかを、ちょこちょこっとwikiさんで調べては。 今の社会は、道徳も倫理観念も地に落ちた。 かつて武士道を見習って、かくあるべし!なんて、ほざいちゃうのでしょう。 ご存じかと思いますが。 あれ 既に、当時の理想論だから。 後書きだか、書評だか 作者さん自ら、こんな武家社会だったらいいのにね!って書いている。 だから 『葉隠』を拾い読みして それが当時の武家社会で、それこそ武士道だ!ってのは、大きな勘違い。 当時の社会が、全く以(もっ)て、そうでなかったからこそ 山本常朝さんが、こうだったらいいな!って、理想を書いた。 ただ それだけの、お話。 浮世絵だって、そう。 赤襦袢(あかじゅばん)を肌蹴(はだけ)た、半裸の美女。 それを 恥かしげもなく!とか、なんて見っともない格好を!とか。 たしか NHKさんで解説していたと思うのだけど。 花魁(おいらん)から、飯炊き女(めしたきおんな)まで みんな、みんな 仕事場では、すっぽんぽんだった、とか。 それを、写実主義と まんま、全裸を描いたって、色っぽくも何ともない。 そこで 浮世絵師さんは、わざわざ着物を着せて、あえて肌蹴させて あなたみたいなヒトの劣情を刺激した、みたい。 だったら 浮世絵を見て、あれこそ江戸吉原だ!なんて、丸っきりの勘違い。 そもそも 現代日本人に、急激な遺伝子異常が起こった記録はなく。 ダンナのを見て アレとコレが、どうして違う?…失礼、どれほど誇張されているか、どうして判らんの? 当時、大流行だったから、って それが 歴史上、貴重な資料だから、って。 なにも 当時の風俗を、当時の感性を、まんま、書き留めたとは限らない。 いや、往々にして 当時の社会は、そうじゃないから、そういう常識でなかったから あえて、そう描いたってのも、少なくない。 そういうのが 日本人の心、武士道で、あたしたちの「おもてなしの心」ってヤツなのでしょう。 巷(ちまた)では 徹底して最後まで面倒を見るべき!やら 命を軽視する考えには同調できません。ただ、産めなくしちゃえばいい!やら。 ほんと 美辞麗句、常識論ばかりが、大流行。 まあ そういう上っ面な論調は、実体を何ら反映していない? それは 武士道とか浮世絵とか、まるで同じなのかも知れません。 ただ それにしたって それ、どっからの目線? あたしは 牛さんも、豚さんも、鶏さんも、食べる。 クジラさんやイルカさんを食べないのは 動物愛護ってんじゃなく、たんに、美味しそうに見えんから。 博愛主義が高じて 菜食主義万歳!なんて、おバカ…失礼、勘違いさんも居るけれど 植物たって、それも生命には違いない。 あたしたちって、さ。 他を殺して食べて、生きているんだよ。 けど だから、生命を軽視していい、ってワケじゃない。 むかし、むかし。 何年も大飢饉が続けば 吃人(きつじん)を経験したムラがあったかも知れない。 『わらしべ長者』って、お話は。 ムラビトの半分が、ムラを出て それぞれ分岐点で半分ずつ減って、最後に、ただ一人が成功する。 そういう 伝承の、亜種とする説がある。 ただの神饌(しんせん)とする説もある。 ただ、どちらにしたって 最後の最期、たった一人が選ばれる。 それって ほんとに長者なの?それとも、生贄(いけにえ)? 木の皮を食べて、雑草の根を抜いて食べて もう、何もなくなったとき じゃあ、って、どビンボから「順」に食べると思う? そんなこと、しちゃったら 速攻で、ムラの秩序が崩壊する。 権力・権威って 支配者層だけ、威張っていたって意味がない。 構成員の大多数が認めて、初めて権威で、権力を行使できる。 なら どうせ食べるにしたって、ダレから「順」に、って、しちゃった途端 指折り数えられる階層が、いきなり、反旗を翻す。 彼らが離反すれば 次の最下層が反抗して離反して、を繰り返し もう権威もへったくれも無くなって、ムラの秩序が崩壊しちゃう。 だからこその 神饌なんだと思う。 みんなで籤(くじ)引きをして ダレを食べるかを決める。 そこに 村長(むらおさ)も、未亡人も、墓守もない。 絶対的な平等。 そうして初めて、秩序を維持して、ムラが生き延びたりする。 なら 『わらしべ長者』って、お話は 宝くじが当たりました。万々歳です!ってんじゃなく 吃人伝承の裏返し? あたしは、ドMだけど さすがに、カニバリズムの趣味はない。 ただ あたしたちが食べるってのは、他の生命(いのち)を奪うに違いない。 だったら 人間と経済動物を一緒にするな!でなく たとえ経済動物だって、その生命は大切にしましょう!で、あっていい。 人間だけがエライんじゃない。 食物連鎖に連なって より弱いモノを殺して食べている、だけ。 だったら 食べるって行為に、一対一で対峙して、その犠牲を、丸ごと愛しんだっていい。 そうして 他の生命を奪うと痛感してこそ、その痛みを感じられてこそ ようやく愛玩動物まで広げて、愛しむことができると思うのです。 あたしたちは 神さまじゃないんだよ。 何の生命なら奪ってよく、何の生殖なら奪っていい。 そんなこと 上から目線で、決めていいハズがない。 けれど そうして食べないと生きていけない。 それも、必然。 ただ それを平気な顔で、いや、正義を、常識を気取って得意顔って、どうなの? もっと、もっと、もっと あたしたちは、他人の、他生物の生命に謙虚であっていい。 前にも書いたけど。 ネコの糞尿で街が汚れて困る、ってなら 年老いた、あなたの下の世話も、あなたひとりがやればいい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年04月05日 01時58分08秒
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