|
カテゴリ:ドラマ系の感想
内容
疫病などで疲弊する都。 下道真備(吉岡秀隆)の進言で、遷都を決めた大君・聖武天皇(國村隼) 敵対していた藤原仲麻呂(高橋克典)も協力。 だが、それは、行き場のない旅であった。 伊勢、美濃、近江を巡り、 ようやく、山城の恭仁京に定めた都であったが、疫病は治まらず。 困り果てた大君は、母である皇太夫人・藤原宮子(江波杏子)の元に従い 盧舎那仏を造営する決断をする 光明皇后(浅野温子)は、その事を右大臣・橘諸兄(草刈正雄)に伝えるが、 国分寺などを造ったばかりであり、現在も都造りに人手を費やしているため、 疲弊しきっている朝廷にとって無理難題。 話を聞いた真備は、 その力を見込み、せめてもと行基(笈田ヨシ)に都造りへの協力を求めるが、 朝廷への協力では意味がなく、民達は協力しないと断言されてしまう。 話を聞き真備は、 帰依する民達、、優婆塞(うばそく)へ僧侶の資格を与えるという条件を提示。 だが朝廷の覚え悪く、現在いる僧侶達にとっても、重い条件。 そこで皇太子である阿倍内親王(石原さとみ)の協力を得て、 大君に仕事ぶりを見てもらい、行基のいる泉橋院へ向かうのだった。 状況を見て、納得した大君は、僧侶の資格を与えることを決断した上で、 行基に対し、“大仏造立”への協力を求める。 真備は、疲弊した国にとっての大出費は痛手であると反対するが、 “理屈ではない、私は大きな仏を見てみたい” 大君の強い思いを知った行基は、協力を了承するのだった。 思いもよらぬ事に、戸惑うばかりの真備。 だが、まもなく、天正15年。大君により大仏造立の詔が出される。 そして、橘諸兄は左大臣となり、仲麻呂も参議となる。 そんななか事件が起きる。 天正16年。 次期皇太子と諸兄ら反藤原派が考えていた大君の皇子・安積親王(中村凜太郎) が難波宮への行幸中、体調を崩し恭仁京へと引き返すのだが、 途中。玄ぼう(日へんに方)(市川亀治郎)との面会中、 安積親王は、変死を遂げてしまうのだった。 諸兄、真備は、仲麻呂による謀略であると考え、 これ以上の混乱を無くすためにと、真備は、平城京へ戻ることを大君に進言する。 その後、仲麻呂と相対することになった真備。 平城京に戻ることを仲麻呂に伝え、すでに諸兄の負けであると仲麻呂を諭し 自身も一線を退くことを告げ、ようやく全てが治まるのだった。 そして、天正17年、、都が平城京に戻り、大仏造立が始まると、 仲麻呂が権勢を振るいはじめ、左大臣である諸兄に代わり、 大仏造立へも関与をはじめるのだった。 行基から、話を聞いた真備も、戸惑うばかりであったが、どうにもならない。 そのうえ、真備の唐行きが決定される。明らかに仲麻呂の策であった。 戸惑いを覚える内親王であったが、真備の諭しもあり ついに孝謙天皇として大君の玉座に着くのだった。 天平勝宝4年。。。盧舎那大仏開眼供養会が行われる。 病が思わしくない先帝・聖武太上天皇のことを気遣い、 完成を待たずして行われたものだった そのころ、光明皇太后が作った紫微中台という役所の長に就任する仲麻呂。 権勢を振るい私腹を肥やす仲麻呂の前には、大君は傀儡でしかなく、無力。 大君達は、民達が苦しむのをただ見ているよりほかない状態だった。 そんな天平勝宝6年、ついに真備が帰国する。 仲麻呂の行いと問い詰めた真備であったが。。。。。。。 敬称略 ↑ もう、どこまで書いて良いか分からないので、“転機”まで。 公式HP http://www.nhk.or.jp/osaka/daibutsukaigen/ “1度だけ戦をいたします。 お許し下さい 決して、長くは戦いません。 国を疲弊させる戦にはいたしません どうか、私の戦に、間違いがありませぬよう。” 大仏。。。 それを巡る戦いではないが、 権力争い。。そして、時代が求めていたもの。。。 そんなものは表現された感じかな。 戦いも、描かないかと思っていましたが、 キッチリ描きましたし。 若干、分かりにくさはあるモノの、 結構楽しめた前後編だったと思います。 あ。。。好みや、、、知識量の差による感じ方の違い。 などは、、仕方ないことですので! 個人的には、ほぼ満足。。かな。 ただ、どうしてもヒトコト。 ラスト。。。なぜ、ここだけを、、、アナウンサーに?? それまで、妹の語りが。。。。。 そんなの、どうにでも出来るだろうに。。。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年04月11日 07時44分34秒
[ドラマ系の感想] カテゴリの最新記事
|
|