四国遍路で困ることは「トイレ」と「案内標識」と言われていました。
「トイレ」については、確かに公共的な観点からも必要と
されるかもしれないと思いながら、一方で、高々年間5000人の
歩き遍路のために必要なのかどうか?
ある遍路道の喫茶店での話ですが、そこでコーヒーを飲んでいたら
若いお遍路さんがやってきて「お手洗いを貸してください」と
言っていた。
喫茶店のトイレはお遍路さんのためにあるものではない。
一方で喫茶店の店主は「善意から」お遍路さんに貸しただけです。
お遍路さんもトイレが無くて困っているのかもしれないが
喫茶店の経営者もお遍路さんに「トイレだけ」貸すのは
気持ちのいいものでは無いようで、ある遍路道沿いの喫茶店で
「お遍路さんのトイレお断り」
と張り紙を見たことが何度かある。
このジレンマを解消するためには別にトイレだけ貸す
「飲食店」「商店」「一般民家」などを募集して
「有料でお遍路さんにトイレを貸す」システムなどどうだろう?
わざわざ作る必要など無いと思うのは私だけではあるまい。
「案内標識」については遍路団体の方も多少語られていましたが
そもそも案内標識がそれほど必要なのだろうか?
武蔵野ではないがお遍路さんは迷うことを恐れてはならない。
そもそも、道を間違えることは困ることなのか?
道を間違えていることを指摘されたら
それはありがたいことではないか?
それ以前に、四国遍路自体は遍路道を歩くのが目的では無く
札所でお参りすることが目的ではないか?
最終的に札所にたどり着くためのルートは無数にある。
「信仰」という観点から見たら、むしろ不便であることは
信仰を深めるためにメリットがあってもデメリットは無い。
苦難があってこそ、その苦難を乗り切るために信仰が
必要なのではないか?
また、そこで救いの手が差し伸べられた時、
信仰が深まるのではないか?
仮にトイレも等間隔に整備され、遍路道の標識も整備され、
その通りに歩いたら、そのまま札所につけるようになったら
それは果たして遍路なのか?
ただのウオーキングとどう違うのか?
こんな下らない事を世界に発信しようとするのか?
仮に世界遺産に登録されて全く四国の宗教的価値を理解しない
人間が世界から押し寄せたら四国霊場はどうなる?
少なくとも四国遍路は聖地です。
その宗教的価値を全く理解しない人間に歩いて欲しくない。
私はそう思います。
皆さんいかがですか?
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