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テーマ:今日行ったコンサート(1138)
カテゴリ:オペラ
新国立劇場中劇場 14:00〜 2階 プーランク:カルメル会修道女の対話 ド・ラ・フォルス侯爵:佐藤克彦 ブランシュ:冨永春菜 騎士ド・ラ・フォルス:城宏憲 マダム・ド・クロワシー:前島眞奈美 マダム・リドワーヌ:大高レナ マリー修道女長:大城みなみ コンスタンス修道女:渡邉美沙季 ジャンヌ修道女:小林紗季子 マチルド修道女:一條翠葉 司祭:永尾渓一郎 第一の人民委員:水野優 第二の人民委員/ティエリー:松浦宗梧 ジャヴリノ/看守:中尾奎五 役人:長冨将士 アンヌ修道女:河田まりか ジェラール修道女:斎藤真歩 他合唱 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:ジョナサン・ストックハマー 演出:シュテファン・グレーグラー 基本、オペラ研修所の修了公演はアマチュアだと思うので(一応プロの音楽家としての第一歩...みたいなことをプログラムに書いてましたが、まぁ、アマチュアだと思います)、あまり論評するものではないなとは思っているのですが、一応そこそこのチケット代を取っていますのでね。書いてもいいかなと思って。というより、これは個人的に書いておかなきゃと思ったので。 このオペラ、かなりマイナーなものという気はしますが、昔から知っている作品ではあります。ドナルド・キーンが昔書いていた音楽に関するエッセイの中でこの作品の話が出てくるのを読んで以来聞きたいと思っていて、初演したデルヴォー指揮の録音くらいしかなかったので、それを聞いていたものです。その後ケント・ナガノが振ったのが出て、映像もそれで見られるようにはなり。1990年くらいには日本でも上演されたらしいですが、自分が観たのは2010年の藤原の公演。生で見たのは初めてでしたが、まぁ、良し悪しのある公演ではありました。問題だったのは、やはり演出で、藤原のそれは映像を使ったもので、正直いいとは思いませんでした。ケント・ナガノの舞台も決して納得感のあるものではなし。 まぁ、正直言うと、あまり舞台として納得したことはなかったんですよね。 今回の公演ですが、まず最初に指摘したいのが、実は、字幕です。何がどうなのか。私は原語のリブレットに当たったわけではないのですが、非常に印象的な言葉が出てきます。「小ウサギ」。最初は第1幕。騎士である兄が、群衆に馬車を囲まれて這々の体で帰ってきた - 実際この舞台ではそういう感じではなかったにせよ - ブランシュを「私の小ウサギ」というような表現で呼ぶ。その後、第2幕で、亡くなった修道院長に代わってリドワーヌ新修道院長が、長々とやや退屈で卑俗な就任の弁を述べる場で、いわば小さき者、弱き者にはそれに相応しいものを、というような文脈で、「小ウサギに香草は相応しくない」というようなことを述べる。そして、そのすぐ後 - この公演では休憩が間に挟まるのですが - 兄がブランシュに面会に来る。ブランシュに修道院を出るようにと連れ出しに来たのだが、ブランシュはここに残ると拒絶する。その時に再び兄が「小ウサギ」と呼ぶ。それをブランシュは拒絶する。 いや、原語でどう言っているのか、同じ言葉なのか、ニュアンスはどうか、とか、いろいろあるんですけれどもね。でも、この言葉、私は今まで気付いていませんでした。 フランス語は分かりませんが、調べると、「小ウサギ」という表現は、親しい、というより、か弱い女性、或いは恋人に対して使われる、そういうニュアンスらしいです。 率直に言うと、私は、割と長くこのオペラには付き合って来たけれど、このオペラの最後には必ずしも完全に腑に落ちていたわけではないのです。ストーリーを見る限り、ブランシュは最終的に「殉教」を選ぶのですね。それがどうしてそうなるのか、藤原で見た時は、これを召命と理解してはいたのだけれど、ただ、多分何処かで腑に落ち切っていなかった。 今回見ていて、あ、と思ったことがあります。それは、このオペラは、1950年代半ばに初演されたオペラで、元々は映画用に書かれた台本を基に作曲したそうで。その映画のスコープには、やはり第二次大戦の全体主義への批評があったらしいのですが、ここで大事なのは、確かにモチーフとしてそういうものはあるだろうけれど、同時に、これは1950年代の作品だということ。今回の公演プログラムでこのオペラを評して「20世紀を代表するオペラ」という表現がありますが、私はそれは間違っていると思います。20世紀は、どう考えても、特にオペラやクラシック音楽に関する限り、第一次大戦と第二次大戦という二つの大戦で区切られている。だから、代表しているかどうかは分からないけれども、少なくとも「戦後を代表するオペラ」なのだと思います。 それはどういうことか。このオペラは確かにカルメル会修道女の物語であり、描かれているのは最終的に「殉教」する修道女たちなのだけれども、決してそれだけの単純な話ではないのだろうということ。それは、そもそも、最も宗教的には過激であろうマリー修道女長が生き延びてしまうということ自体にも表れていますが、それ以上に、ブランシュの物語は、宗教的な物語ではないのではないか。 ブランシュはフランス革命期の貴族に生まれた娘ですが、このオペラは1950年代に書かれた物語です。ブランシュは「恐怖からの解放」というモチーフを持ってはいますが、実は恐怖というのは抑圧のことではないのか、と考えていいのではないか。実は、兄のブランシュに対する第1幕の接し方は、あからさまではないものの、何処か性的なものを感じないでもないものであり、そこは深読みし過ぎかもしれないけれど、それ以上に明らかに庇護するもの・されるものという感じなのですね。そして、庇護というのは、実は支配ということでもある。「小ウサギ」というのはこの庇護される者 / 支配される者の象徴でもあるのでは。とすれば、第2幕で兄が連れ出そうとするのを、つまりは自らの支配下に再び収めようとするのを拒絶するのは、支配への拒絶とも言えると思うのです。そう考えていくと、終幕前にブランシュがかつての自邸を占拠した「市民」に女中として使われ、支配されている状況、それに甘んじる姿は、その後の「殉教」のシーンとの対比で繋がります。つまり、あれは或いはブランシュにとっては、殉教である以上に、自らを支配しようとする軛からの解放ではないのか。修道院に入ることで兄という支配からの解放を得られたブランシュは、最終的に解放される為に殉教を選んだとも言えるのではないかなと。 知らんけど。 これが正しいのかどうかは分かりませんし、恐らくは実は複雑なテーマを秘めた作品の一側面を針小棒大に取り上げているのかもしれない。ただ、そのように読める舞台ではあったし、そのきっかけになったのがあの字幕の「小ウサギ」ではありました。 こんなこと、フランス語わかってりゃなんてことない話なのかもしれないですけどね。 で、公演それ自体の話をすると、まずもってこんな風に登場人物の機微を、情景を読み込もうとしてしまえる程度に整った舞台でした。その意味で、演者も、演出も、よく出来ていた。 演出についていうと、演出スタイルはいわば具象と象徴とを上手い具合にバランスさせたといったところ。中劇場なので大掛かりな舞台転換は難しいし、そもそも予算もなかったでしょう。そこで、廻り舞台を最大限活用して、というよりあれはもう使い倒して、場面転換や情景の動きを上手く表現してみせた。 舞台装置は、中央の廻り舞台に、幾つかの構造物を組み合わせて、それを回転させる、つまり方向を変えることと、小道具や布などの「中道具」を上手く使い回し、一方で上から吊った、格子にも見える3本ほどの、金属的な質感の棒を上げ下げすることで、舞台上を上手く見せていました。勿論、それで舞台上に展開される情景は、どうしても「見立てでこうですよ」ということになるけれど、その見立てがそれほど無理のあるものになっていないのは、演出や舞台美術の工夫の勝利でしょう。それと、個人的に大きかったのは、安易に映像に頼らなかったこと。これはとても大事だと思います。無論かなり積極的に証明を使ってはいたけれど、映像で見せることはしなかった。礼拝堂だって、修道院長の部屋だって、牢獄だって、映像で作ろうと思えば割と簡単に作れてしまうけれど、そういう安易な方法に頼らずに、制約のある中で現実の現物である舞台とその上の装置を使って架空の情景を見せることが出来ていました。 演者については、まぁ、歌手個々の出来がどうこういう作品ではないと思います。その意味で、演技も含めて全体によく出来ていたと思います。決してお世辞ではなく、それぞれの役柄にフィットしていたと思います。まぁ、発音とかは、フランス語はわからないのでね........それにしても。 とはいえ、声量とかそういうことを言うと、やはり中劇場だから十分、という面はあるとは思います。このまま大劇場に持っていくのは難しいかも知れないですね。でも、言い換えれば、演出も含めて中劇場にフィットした舞台であると思います。また、このオペラは、むしろこうした大きくない劇場でやるのが合うのかも知れません。 これに限らず、新国立劇場はもっと中劇場をうまく活用してほしいと思うんですけれどもね。演目に限らず、どういう演目であっても、中劇場でこそ出来ることとかあると思うんですよね。 オケは東フィル。安定の東フィル。こちらも比較的タイトな編成でよく出来ていました。これらを取りまとめた指揮も良し。 修了公演がー、とかそういうことでなく、ごく個人的に非常にいい機会になったと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年03月06日 01時06分54秒
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