クロニクル 天下分け目の関が原
1600(慶長5)年9月15日
417年前のこの日が、歴史に名高い関が原の合戦が行われた日です。
徳川家康を大将とする東軍と、石田三成をリーダーとする西軍の合わせて16万人の兵が、美濃(岐阜県)北部の関が原で激突した一戦です。
互いの兵力は、西軍8万5千人に対し、東軍は7万5千人と、西軍有利でしたが、戦闘意欲並びに軍の指揮命令系統の一本化の点で、西軍は大きな欠点を内包しておりました。その弱点がいざと言うときに、はっきりと出てしまったのが、西軍敗退の主因でした。
午前8時頃に始まった戦いは、午前中は一進一退を繰り返していましたが、8万人以上を擁する西軍で、まともに戦っていたのは3万5千人くらいだったのに対し、東軍はほぼ全員が死力を尽くして戦っていたと言われます。その結果、西軍の中の形勢観望組が、小早川隆景を先頭になだれを撃って東軍に寝返り、午後には、東軍の優勢が明らかとなりました。
関が原の完勝によって、徳川家康の覇権が、はっきりと浮かび上がってきましたが、家康の勝因のひとつに、秀吉の正妻「北政所(寧々)」の支持を得、寧々を慕う武将たちを東軍に取り込むことに成功していたことを、あげることが出来ます。家康が狸親爺といわれる所以ですね。