映画「のぼうの城」を観る
和田竜の時代小説『のぼうの城』上下巻(小学館文庫、2010年10月)を購読してとても面白かったので、鹿児島の天文館パラダイスで同作品を原作として東宝で映画化された「のぼうの城」が上映されていましたので観に行ってきました。 私は子供の頃、楠木正成が山中に築いた山城の千早赤坂城に立て籠り、数万の鎌倉幕府の討伐軍に対して知略を尽くして戦う武勇譚が大好きでしたから、時代小説『のぼうの城』が500人の少人数が2万の大軍を相手に戦うという心躍るような設定だと知ってすぐに書店まで購入しに出かけたものです。 原作を読んで、忍城を守る正木丹波、柴崎和泉守、酒巻靱負等の戦国時代の武者ならではの自己主張の強い荒くれ武者たちに魅せられ、また彼ら武将からは軽んじられ、忍城下の百姓からは「のぼう様」と呼ばれながら親しまれる成田長親という得体の知れない人物の存在にも興味を持ちました。少人数の忍城の部隊が豊臣の大軍を迎え撃って互角に戦えたのは、「のぼう様」が角の多い野生の動物のような武将たちの各自の能力と個性を自由に生かし、また「のぼう様が戦するってえなら、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしうもあんめえよ、なあ皆」と積極的に忍城に籠城して戦いに加わらせた「のぼう様」の人望によるものだったと思われます。 こんな忍城の荒くれ武者と彼らに協力して戦う百姓たちが2万の豊臣の大軍を相手に繰り広げる戦闘シーンや、石田三成の水攻めの戦術、さらにはこの水攻めを破るために「のぼう様」こと成田長親が考え出した奇妙な田楽踊りの計の内容と効果がどのように映像化されたのか大いに興味を持ちましたので、映画「のぼうの城」も観ることにしました。 正木丹波を佐藤浩市、柴崎和泉守を山口智充、酒巻靱負を成宮寛貴が演じ、各自が個性的な荒くれ武者をよく演じていましたし、百姓を加えての戦闘場面もなかなか迫力がありました。ただ、黒沢明監督の「七人の侍」では戦いに慣れない百姓を武士たちが軍事訓練する場面がありましたが、豊臣のプロ軍団と戦う忍城の百姓たちにも軍事訓練を施すシーンが必要だったように思います。 忍城の武将に軽んじられながら彼らを一つにまとめる「のぼう様」こと成田長親という演じるに難しい役を野村萬斎が見事に演じていました。また石田三成の水攻めの計によって、利根川と荒川の両河川の人工堤への引き入れ口が火薬で決壊させられ、水が忍城目指して怒涛のごとく襲いかかる場面は、今度の東日本大震災のときに生じた大津波を思い起こして戦慄させられました。 石田三成の水攻めの計によって忍城が陥落の危機に陥ったとき、この水攻めの計を破るために「のぼう様」が小舟に乗って敵味方見守る中で田楽踊りを披露しますが、狂言界の至宝といわれる野村萬斎ならではの不思議な雰囲気を作り出し、敵味方みんなが「のぼう様」の踊りと歌に合わせて一斉に歌い踊る姿になんの違和感も感じませんでした。こんな愛すべき「のぼう様」が銃で撃ちおとされたら、百姓が怒り出して水を塞き止めている堰を決壊させても不思議ではありませんね。 ところで、「のぼうの城」に描かれた忍城を巡っての成田軍と石田三成率いる豊臣軍との攻防は史実だったようですが、のぼう様の田楽踊りが石田三成の水攻めの計を打ち破ったというのも史実なんでしょうか。映画館で購入した「のぼうの城」のパンフレットに河合敦(歴史作家、歴史研究家)の「史実の忍城戦と、成田長親という男の矜持」という文章が載っていますが、そこに三成の忍城攻撃と水攻めのことがつぎのように紹介されており、のぼう様の田楽踊り戦術の話は完全なフィクションのようですよ。 「石田三成が包囲を完了した六月七日朝、さっそく佐間口、下忍口、長野口か兵を送り込んで攻撃を開始した。だが城へ至る道が狭隘なうえ、道の両側は水田や池沼が広がっていたため、城方の激しい銃撃をうけて敗退、十一日の総攻撃も失敗に終わった。そこで三成は根本的に戦術を改め,水攻めをおこなうことにしたのだ。主君秀吉が焦っていたので、できれば悠長な水攻めはしたくなかったが、これしか方法が無いと判断したのだろう。 三成は、数万の人夫を動員してたった一週間で全長二十八キロにおよぷ包囲堤をつくりあげ、利根川と荒川から水を引き入れた。が、忍城が水没するには至らなかった。完全な計算ミスだ。このとき成田氏は、舟に乗って歌をうたいながら、城の周りの湖を漕ぎ回ったという。しかし、それからまもなく激しい雷雨があり、増水した荒川と利根川からの濁流が堤内に怒涛のようになだれ込んだのだ。忍城が水に没するのは確実な状況となった。 ところが成田氏は、水練熟達者十数人を選抜し、夜陰に乗じて堤防を破壊したのである。破れた堤からは大量の水が噴き出し、その奔流は豊臣軍の陣地を直撃し、ニ百七十余人が犠牲となったという。堤防が決壊した後、忍城周辺は泥沼化して馬の蹄も立たず、しばらくの間、城に近づくことができなくなった。水攻め作戦は、完全な失敗に終わったのである。 しばらくして攻撃を再開した三成だったが、いずれも城方に撃退され、なんと、小田原本陣のほうが先に開城してしまっのだ。かくして忍城は、後北条方で唯一、陥落しない城となったのである。最終的に主君・氏長の命により長親は城を明け渡すことにきめた。」