西郷隆盛が斉彬から篤姫への密書の届役?!
宮尾登美子の時代小説『天璋院篤姫』において、江戸城に篤姫が入與する前日、薩摩藩の江戸の公邸で斉彬が居間に彼女を呼び、「そなたの任務が、単に御台所として大奥を統べるだけでなく、一歩も二歩もいでて将軍を補佐するという重大な意味を帯びてくる」とし、さらにもし将軍に世継ぎが生まれなかった場合、将軍に次期将軍として一橋慶喜を薦めるようにしてもらいたいと密命を伝える場面があります。そして、さらに宮尾登美子のこの時代小説は、斉彬につぎのように言わせています。「むろんそなた一人の力に頼るというのではない。始終当方と連絡を取り合いながら計画をすすめて行くのじゃが、さしあたっては当家庭役の西郷吉兵衛を働かせ、その報告を当家小の島に、小の島から幾島への密書として、常時届けさせる故、於篤はそれを十分承知の上で行動するように」 小説だから斉彬から篤姫への密命の内容が生々しく書けるのですが、勿論こんなことはどんな史料にも記録されていないだろうと私は思いましたから、斉彬が西郷吉兵衛を通じて篤姫に密書を届けさせたなんてことも史実としては確かめようもないことだろうなと思いまし。ところで、あの西郷隆盛の父親の名前が西郷吉兵衛なんですが、この小説の後半には「西郷吉兵衛と僧月照との入水」「これで幾島の許への吉兵衛の密書も途絶えてしまうのである」という記述があり、小説の西郷吉兵衛とは西郷隆盛のことのようです。実際、隆盛は父の死後にその名を継いで吉兵衛と名乗っていた時期があるようです。 宮尾登美子の時代小説に書かれている斉彬から篤姫へのこんな密命の話、私は半信半疑で読んでいたのですが、な、なんと社団法人の鹿児島観光連盟のホームページ「観光鹿児島」中の「天璋院篤姫」紹介のページにもやはり西郷隆盛が島津斉彬の指示を受けて篤姫宛の密書を届けていたという記述があるではありませんか。その記述は「篤姫ゆかりの人物を知る」の中にあり、藩主斉彬に取り立てられて庭方役など側近として活躍するようになった西郷隆盛が「篤姫婚姻後は、次期将軍に一橋慶喜を推す斉彬の指示を受け、篤姫宛の密書を届けるなど大奥工作の要人として篤姫と関わる」としているのです。 ウソー、ホントーって感じですが、物語としてはとっても面白いお話ですよね。しかし、今日(1月29日)の「南日本新聞」に尚古集成館副館長・松尾千歳氏執筆の「薩摩から大奥へ 天璋院篤姫の生涯」の2回目が載っているのですが、そこには、「篤姫と家定の縁組も、斉彬らが大奥工作をさせるために仕組んだものといわれ、これが通説になっていた」が、その説は誤りだとしています。 松尾千歳氏によりますと、「鹿児島県史料」として「斉彬公史料」(4巻)が刊行され、その編纂委員を務めていた芳即正氏が同史料を使って通説の誤りを明らかにし、家定の夫人として京の公家から迎えた二人の女性が相次いで病死したことから、家定も大奥を長年にわたって束ねていた広大院(島津25代藩主・重豪の娘)も長命と子孫繁栄を願って島津家との縁談を願い、大奥主導でこの縁組は進められたというのです。 その根拠として、この「南日本新聞」の記事には、斉彬が嘉永6年(西暦で1853年になりますが、篤姫が大奥に入る3年前です)に書いた「右大将様(家定)、広大院様御繁昌の儀を思し召し、以来、御良縁あらせられ候はば、京都は御好み遊ばされざる御模様より」という公家の近衛家宛書簡とか、「右大将様、広大院様の御血筋を御好みと申す儀より起こり候」という家老の末川近江宛書簡が紹介されていますし、また斉彬の側近の「公用控」に、家定の二人目の夫人だった一条忠良の娘が嘉永3年(1850年)に亡くなって間もなく、「広大院比丘尼のうちより、年寄まで、内々にて大隈守(島津斉興のこと)ならびに私(斉彬)娘年ごろのものござ候や」と問い合わせがあったことが書かれている斉彬の文章も提示されています。ペリー艦隊来航(1853年6月)以降に家定の継嗣問題が起っているわけですから、「縁談は、将軍継嗣問題とまったく無関係に大奥主導で進められていたのである」とするのです。 勿論、将軍継嗣問題が起ったときには、篤姫から家定に慶喜を養子にするよう説得させようとする動きも当然あったようで、福井藩藩士の中根雪江が藩主の松平春嶽の政治活動を記した「昨夢紀事」には、松平春嶽がそのような提案を斉彬にして来たそうですが、下手な工作は「かえって以後の障り」になるのですべきでないと斉彬は諭しているそうです。 それで、斉彬の篤姫への密命説やさらには西郷隆盛の密使説などは史実とはいえないのではないかと思ったのですが、 ところがどっこい、な、なんとやはりこれは史実のようなんですよ。「南日本新聞」の記事はきっと芳即正著『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)等の記述を踏まえて書かれたものに違いないと思って、後日になって同書の篤姫と継嗣関係の箇所を読んだのですが、それによりますと斉彬の篤姫への密命説やさらには西郷隆盛の密使説はどうやら史料的にも根拠のある話らしいのです。それで、あらためて2007年2月6日のブログにそのことについて「斉彬の篤姫への密命と隆盛の密使役について」と題して拙文を書きましたので、この問題に興味のある方はぜひご覧くださいね。