篤姫が鶴丸城で斉彬と初対面(その2)
拙ブログの前回(1月27日)の拙文記事「篤姫が鶴丸城で斉彬と初対面」で、「寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)によると、斉彬は嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に一門家の家族を鶴丸城に招いており、そのときに今和泉家の娘として篤姫(当時は於一ですね)も出席しているそうです」と書きました。 なお、寺尾美保『天璋院篤姫』の書中には、この史実の原典史料名として『公史料』としか書かれていませんでした。当然、『公史料』とは鹿児島県維新史料編さん所から出されている『鹿児島県史料 斉彬公史料』のことだと思ったのですが、その第何巻のどのページにどのように載っているのか気になりましたので、鹿児島県立図書館まで行って確認してきました。 それで、判明したのですが、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第1巻(鹿児島県維新史料編さん所、1981年1月)の422頁から424頁にかけて嘉永4年12月15日に開かれた「御家督御内証御祝」のことが載っていました。すなわち、「御家督初テ就御下国、御内証御祝御兄弟様方・御女中方来ル十五日御招、御料理被進被下、御能拝見被仰付候御次第」として、当日の参加者名や出された料理、能の演目などが紹介されていました。 そして、それらの「兄弟様方・御女中方」の中に、「島津安藝殿」(篤姫の父親ですね)とその「奥方」に加えてさらに「島津安藝殿」の「息女」の「於一 於龍 於才」の名前も列記されており、「右畢テ御見物所ヘ被為入」としています。「御見物所」とは、能を鑑賞する広間のことでしょうね。そしてさらに「於御見物所御一門方一同御目見、引続大目附以上御目見被仰付」とあり、その下に[御見物所御手狭故、御一門方並種子島弾正殿大目附以上一人ツヽ御目見」との注が付けられていました。 注の内容から判断するに、「御見物所」は狭かったので、「御見物所」に入った人たちは改めて斉彬の前に一人ずつ出て拝謁したようですね。そうしますと、於一(後の篤姫)もまた斉彬と直接対面したと思われます。 寺尾美保『天璋院篤姫』は、これらのことを踏まえて同書の137頁に「史料には、島津安泰(忠剛)殿息女として於一(篤姫)、於龍、於才と三人の娘の名前が並んでいる。この会に、今和泉島津家からは、忠剛夫妻と三人の娘、忠剛の義父忠喬夫妻、そして篤姫の兄忠冬夫妻が出席していた。これが、今和泉島津家の娘として斉彬に初めて対顔を許された日であったと思われる」と書いたようです。 やはり嘉永4年12月15日(1852年1月6日)は篤姫と斉彬の初対面の日だったのですね。