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カテゴリ:田中一村
私は田中一村の絵が大好きで、私のホームページに「田中一村の遊印」というページを設けたほどですが、その田中一村が描いたある南画の画賛について新たに判明したことがありましたので、そのことをこのブログで紹介したいと思います。
田中一村は詩画一如の南画の世界で育まれた人間です。幼い頃から筆を握って南画を描いていた一村にとって、漢詩は絵を描く上での欠かせぬ基本的な教養であるばかりではなく、またそれによって美的感性を磨くとともに、その価値観の土台を形成し、さらに自らの日々の心情を託したり慰め励ましたりしていたと思われます。 田中一村の若い頃の画号は「米邨」(べいそん)だったのですが、1947年春に画号を「柳一村」と改めています。この「柳一村」という新しい画号は、陸游の詠んだ漢詩「遊山西村」の詩句中の「柳暗花明又一村」(柳暗く花明かるく 又一村あり)から選び取ったものだそうです。 そんな田中一村が米邨時代に描いた南画には、多くの場合、中国の漢詩が画賛(画中の余白に書き添えられた詩や文章)として書かれています。しかし、私のような人間には、それらの画賛の詩の多くがどのような詩人によって詠まれたものか残念ながらよく判りません。 昨年、全国で「奄美群島日本復帰50周年記念 田中一村展」が開催され、鹿児島市でも6月に山形屋で同展が開かれましたので、喜び勇んで出かけましたが、会場に飾られた米邨時代の南画にもやはり私にとって「詠み人知らず」の画賛が幾つもありました。 ところで、山形屋の会場に展示されていた一村の絵の中に、扁額に描かれた牡丹の花の絵もあり、そこにやはり漢詩が画賛として添えられていましたが、それが誰によって詠まれたものか今日になってやっと判明しました。 昨日、よしだかさんが運営しておられるブログに田中一村関連の記事が載っていることを知って同ブログを拝見したのですが、その2005年10月07日の「朝雲」と題された記事につぎのようなことが書かれてありました。地元の朝刊の「新・田中一村」という連載に、田中一村が米邨時代に描いた牡丹の絵の画賛についての言及があり、それが李商隠が詠んだ詩であったというのです。そして、よしだかさんは、その「最後の一行は、高橋和巳の訳によると、『この私の恋心を牡丹の花弁に書きしるし、巫山の方なる神女のように美しいお方に、その手紙を届けたく思う』となっているのだが、原文は『花片に書して朝雲に寄せんと欲す』となっているだけだ・・・『朝雲』にそんな複雑な意味があるのかな?」とコメントをされています。 この「花片に書して朝雲に寄せんと欲す」との字句を見て、私はそれが山形屋の会場に展示されていた扁額の絵に添えられていた画賛の結びの句「欲書花片寄朝雲」の漢文を読み下したものであることに気づきました。そうしますと、この扁額の牡丹の画賛は、李商隠の「牡丹」という詩から引用したということが判りますね。嬉しかったですね、前から気になっていた一村の南画の画賛の詩句の一つが判明したのですからね。 なお、「朝雲暮雨」という言葉がありますが、黒子知視さんのホームページの「慣用句辞典」にこの語句の説明があります。それから、一村が画賛に使った李商隠の「牡丹」の詩をはつぎのようなものです。 錦帷初捲衛夫人 繍被猶堆越鄂君 垂手亂翻雕玉珮 折腰争舞鬱金裙 石家蝋燭做曾剪 荀令香爐可待熏 我是夢中傳彩筆 欲書花片寄朝雲 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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