私の義父の本田又雄が先月中旬に他界しました。享年90でした。本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。
義父の葬儀も無事に終わった後、関西に勤務する私の長男、次男から「じいちゃんの思い出」についてのメールをもらいましたので、義父への追悼記念としてこのブログにアップさせてもらいます。
なお初孫のはんちゃん(明石の福祉施設勤務)は、福岡の病院で産まれています。当時妻の実家が福岡に在ったからです。義父は毎日仕事帰りに初孫の顔を見に病院に通いました。鹿児島に帰った初孫のお食い初めの日には義父が福岡から駆けつけて祝ってくれました。妻がはんちゃんを連れて福岡の実家に里帰りしたときには、いつも義父が嬉しそうに「はんちゃん、はんちゃん」と言って初孫と一緒にお風呂に入っていたものです。また自転車に乗せて散歩によく出掛けており、そのおじいちゃんと孫のほほえましい姿が忘れられません。大泉逸郎が「孫」という題名の歌謡曲で「なんでこんなに可愛いのかよ/孫という名の宝もの」と 歌っていますが、まさにその通りの思いを持ったおじいちゃんがそこにいました。
妻の両親が鹿児島に移ってからも、明石に就職したはんちゃんが鹿児島に帰って来たときはいつも義父母の家に立ち寄っていました。義父が88才になったとき、はんちゃんが米寿のお祝いを率先して企画し、4人の孫たちがおじいちゃんに帽子や花束を贈呈していました。はんちゃんが帽子をじいちゃんの頭に被せたときは、些かはにかみながら祝いの席のみんなに披露していたものです。
義父ははんちゃんが年頃になったとったとき、「はんちゃん、結婚はまだかい」といつも声を掛けていましたから。そんな初孫が結婚すると聞いたときは大喜びしたものです。ところが彼の結婚式の約1ヶ月前に腰骨を折ってしまい、神戸での結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。はんちゃんは初孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。
そんな初孫のはんちゃんがじいちゃんの思い出としてつぎのようなことを書いています。
「まず1つは焼酎です。福岡の福間に遊びに行き、私はじいちゃんの膝や傍に座り、みんなで食事を囲んだときに、必ず焼酎にポットからお湯を入れて、お湯割りを飲んでいました。あの、芋焼酎とじいちゃんの匂いは今でも思い出します。
次に2つ目は自転車です。孫達みんなじいちゃんの自転車の後ろには乗せてもらってます。色々連れて行ってもらいましたが、行き着く場所の思い出ではなく、私は、真面目なじいちゃんが道行く若い女性に『お姉さん! 今何時ね?』と熊本弁で声をかけたことを鮮明に覚えてます。なぜかというと、真面目で真っ直ぐなじいちゃんが、若い女性に声をかけるだなんて、と驚いたからです。ただ時間が知りたいだけの事だったんでしょうけどね。
3つ目は、マッサージと就寝の時間厳守です。これも福岡の福間に孫が遊びにきても、6時半か7時半くらいか忘れましたが、必ず決まった時間には二階に上がり、マッサージのベッドでマッサージしてましたね。それから就寝するようで、朝まで下りてくることはありませんでした。孫が来ようが自分の決めた時間を守るじいちゃんでした。
この3つ以外にもたくさんエピソードはあります、初孫として愛されていたことはパパさんの方が知ってるのではないでしょうか。福間の広い家に優しい笑顔で迎えてくれたじいちゃん。いつも笑顔で、親しみやすかったですね。結婚はまだかと手紙が来たり、冗談なのか分かりませんがもう諦めたなんて手紙が来たりしたものです。私の結婚式には喜んで参加してくれましたね。晩年は耳が遠いのもあったのか、あんまり思いを話せる事はなかったですが、手紙をたくさん頂きました。手紙を返す事が少なくすいません。
真面目で2人の娘にも4人の孫にも、ばあちゃんにも愛されていたじいちゃん。みんな誇らしく思っています。最後は遺す言葉も伝えられず無念だったと思いますが、きっと私達の声は届いていて、私の休みに合わせて旅立ちましたね。最後まで人様に迷惑かけないように、真面目なじいちゃんらしいな思しました。本当にありがとうございました。私の子供達にもしっかり伝えていきます。」
また次男ののんちゃん(大阪の病院に社員として勤務)も下記のような本田のじいちゃんについての思い出を書いています。なお彼は、鹿児島で産まれています。
「僕が小学校入るか入らないかだった頃、両親と兄と4人で鹿児島から福岡の福間まで在来線と特急電車に揺られて会いに行ったことをいまでも覚えています。当時で片道5時間くらい、普段の生活で電車に乗る機会がないので、それだけでわくわくしたものです。福間駅に着くとおじいちゃんとおばあちゃんが改札口に待っていてくれて、『よく来たねー』って本当に笑顔で喜んでくれたのが、いまでも忘れられない嬉しい思い出です。いま思えばこの時に、僕の中でのおじいちゃん、おばあちゃんっていうのは、離れていても温かくて優しい存在なんだなってことを強く認識させられたように思います。
そんなおじいちゃんは、うる覚えですが自転車の後ろに僕を乗せて、買い物やプールに連れて行ってくれたような記憶があります。僕を楽しませるために家の近くを何度もぐるぐる回ってくれたときに、『じいちゃんこの道さっき通ったよ』って僕に突っ込まれたみたいで、そのことを晩年よく楽しそうに語ってくれました。
鹿児島に帰省したときも、僕の同級生のプロ野球選手のことを話のきっかけにして、僕の仕事のことをとても気にかけてくれました。また戦時中のことなど話してくれました。どれにおいても忘れられない思い出です。
最後に一つだけおじいちゃんに謝らないといけないことがあります。それは何回か手紙をもらったにもかかわらず、返事を書けなかったことです。ごめんなさい。もうおじいちゃんに返事は渡せないけど、心の中にいるおじいちゃんに感謝し、生きていきたいと思います。おじいちゃん本当にありがとう。」
本田のおじいちゃん、本当にありがとうございました。真面目な勤め人であり、また優しい家庭人だったおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思いますよ。