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カテゴリ:やまももの創作短編
いまムーブメント淸水という施設で、私は毎週木曜午前中に3時間リハビリ治療を受けています。まずエアロバイクで足腰のトレーニング、つぎに理学療法士の方による手足の揉みほぐし、そして最後にレッドコードを使っての柔軟体操をしています。これをいきなりレッドコードから開始したことがありますが、2、3日体の節々痛んで困ったことがあります。何でも順番が大切ですね。 さて話変わって、前に雅人くんが「幼稚園から小学校、中学校、高等学校と同一の大学の附属にずっと籍を置いていました」と書いたことがありましたね。そして、雅人くんの実体験から「親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました」と附属生活を否定的に描きました。 しかし、この大学の附属の校風は「自由・自主・自立」を謳っており、実際そのような校風の中で伸び伸びと育ち、社会に雄飛していった附属生が沢山おられることを雅人くんも知っており、そのことに彼自身が大いに誇りを感じています。 でも雅人くんの場合、静かな小川に足を浸して楽しく遊んでいた児童が、突然競泳用プールに投げ込まれ、溺れかかって水泳が大嫌いになったようなものでした。 雅人くんが大学の附属に通っていることを認識したのは、奈良市内の国立大学の正門近くの大豆山(まめやま)町から小学校の1年生になって同じ奈良市内の油留木(ゆるぎ)町に引っ越したときのことでした。それまで近所で一緒に遊んでいたよりちゃん、よしちゃんたちは同じ幼稚園に通っていましたし、同じ年頃の子どもたちがどこに通っているかなんて考えたこともありませんでした。 ところが油留木町に引っ越して、近くで遊んでいる雅人くんと同年代と思われる子どもたちは、小学校で全く見掛けたこともない子どもたちばかりでした。人見知りの激しい雅人くんは自分から近所の子どもたちに声も賭けられず、附属小学校で同級生とばかりばかり遊んでいました。そのときにはたと気が付いたのです。附属大学の小学校に通う子どもは世間では極めて少数派だということです。 それでもまだ小学校時代は同級生に仲良しの友だちが複数いましたから良かったですが、小学校から内部進学制度を利用して同大学の附属中学校に進級したときには親しく声を交わす友だちが極端に減りました。周囲の同級生たちがみんな雅人くんより秀才ばかりに思われ(実際そうでしたが)、彼はすっかり萎縮してしまったのです。同大学附属高校に進学したときにはその傾向は一層強まりました。アップアップしながらなんとか泳いでいる状態だったのです。 雅人くんは学校にも近所にも誰一人として親しく語り合う友人等はいない孤独で寂しい中高生活を送ったのです。その頃の雅人くんが一番悩んでいたのは自分自身の才能でした。大好きだった漫画で身を立てることなどとっくに諦めていました。油絵用のキャンバス、絵具、筆などを購入して試しに描いたりもしましたが、彼なりに満足できるものを完成することもできまんでした。ただ孤独と焦燥の日々が無駄に過ぎていくように思われました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年09月09日 18時13分25秒
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