とろける蜂蜜の毒2
そして、あっというまに放課後。部室へ向かう。「田村」「伊田」男だ、そう認識した途端に身体が硬くなった。身構えている。失礼だ、せっかく助けてくれた人なのに。「あの、今日ありがと」「ううん、それより大丈夫?」「平気」不自然な距離が出る。「もしかして怖い?」怖い、違うって判ってるのに触りたくない。伊田は毛深くも、太くもないのに重ねてみてしまう。悪いと思いながらも距離を縮めたいと思えない。「怖くないよ。それより今日ってメニュー何?」背中に掻いた汗がスカートに染み込んでいく。尋常じゃない程緊張してる。そのせいでいつもは引っかからないようなでこぼこしたところに足をつっかえてしまった。両手は荷物で塞がれている。これは顔面で地面に激突するそう思ったとき、肩を誰かが抑えてくれた。「大丈夫?」びくっと一瞬固まる。男の手だ、嫌にでかくて人の身体を遠慮もなく触る。虫唾が走る。気持ち悪い。そう思ったらだめだった。「やだ」思いっきり横に飛びのいてしまった。驚いた顔をする伊田。そりゃそうだ、いきなり大声で嫌だといわれたら誰もが驚くに決まってる。「ごめん」泣きそうだ。怖い、今更ながらよくあの状況を切り抜けられたなと。一歩間違えれば、伊田が着てくれなければきっとあたしは。考えたくもないもっと最悪なことになっていただろう。「そんな顔しないでよ」「えっ?」「さっきからさ心底嫌ってるような態度とってるじゃん」「違う、それ勘違い」「それともやっぱびびってる?」認めたくない、なんだかそれを認めたらあたし、ただの弱虫みたいだ。「少し」「そっか」「うん、ごめん」「何であやまんの?」「いや、なんとなく」「謝んなくていいよ」「ごめん」「ほらまた謝った。別に田村悪いことしてないんだろ?」わからない。でも、あまりにも露骨な避け方、これは悪いことといえるんじゃあないんだろうか。「くだらないこと考えんなよ。今日先生、午後から出張だから。すこしトレーニングしておしまいだよ」「うんわかった、ありがと」「失礼します」「華先輩、こんにちは。今日って面付けますか?」「トレーニングだって」「走りこみ」「校庭使えないからそれはなし」「やった!!!!じゃあ筋トレだけですよね?」「うん」「いやった!!!!!先輩、あのね」「何、希美?」「実は、同じクラスの子が一緒に帰らないかって誘ってくれたんです」「え~?まぢ!!!!男?」「はい、だから今日早く帰れそうですよね?」「そうだね、1時間30分とかそんくらいじゃん?ちょっとちゃんと報告しなさいよ!!!!」「はぁい」「あのさ、1つ聞いていい?」「はい何でも」「長山はいいの?」「諦めたって言ったらもちろん嘘になりますよ。だけど、悔しいじゃないですか」「えっ?」「だから、こんないい女が1人でうじうじ悩んでたら、あたしを好きな人かわいそうじゃないですか」開いた口がふさがらない。まさにこういうことで。「希美」「はい?」「あんたって大物!!!!」堪えきれない笑い。こいつまぢで凄い。「なんですか、先輩。恥ずかしいじゃないですか!!!!!笑わないでくださいよ」「いやいやいや、あたしだからあんたが好きなんだ」「何ですか先輩?愛の告白?」「ちげえよばか」頭を小突く。「先輩は、背負い込みすぎ、一人で暗く考えすぎ、ネガティブすぎ!!!!」「ははは、そうかもね」こいつといるとさっきのきまずい雰囲気もどうにかなるような気がしてきた。「じゃ、先行ってるんで早く来てくださいね」「了解」がらりと引き戸を開け出て行く希美。彼女は強い。あたしよりもはるかに。前に行っている、物事をはっきり言う物怖じしない希美はあたしの憧れだ。どうしてこんなにからっとした性格になれるのだろう。あたしはいつまでもめそめそしていて。見ていて、イライラする。目を閉じてあのときのことを考えてみる。産毛が総毛だってまたあの暗い気持ちになる。忘れよう、あたしは何もされなかった、触られなかった。大丈夫大丈夫絶対触られてなんかいない。よし封印、封印して。しっかり密閉して捨ててしまえ。目を開ける。大丈夫だ。あたしもガラリとドアを開けトレーニングに入る。お気に入りのmp3を首にかけ、筋トレルームにあるエアロバイクの電源をONにする。負荷を100から初めて45分間にセットする。耳にイヤホンで栓をして、大音量の音楽を流す。目を閉じてペダルを一回一回しっかりと踏み込んだ。しばらくすると、半そでの体操服にだらだらと垂れる汗が染み込む。流れてしまえばいい、自分の気持ちも全部。汗腺から汗や老廃物と一緒に外へ流れ出てしまえばいいんだ。本気でそう思った。バイクのペダルをこいでこいでこぎまくる。下を向いて、タイマーとだけにらめっこ。負荷をもう50上げる。かなりきつい、でももっともっと考えることができないように。10ずつまたあげる、160,170,180,190、200ペースは落ちない。消費カロリーは負荷を上げるたび面白いように伸びていった。汗なんて出なくなるまで流れればいい。あたしは、顔中汗まみれになりながら泣いていた。鼻水とも、汗とも、涙とも判別がつかない状態。怖い、助けて。友達の気遣いや、何気ない一言で一時的に浮上するけどすぐに暗い闇に繋ぎとめられる。忘れよう、自分に暗示をかけてたって短時間じゃ少しも効きやしない。「華」突然肩を叩かれ、イヤホンの片方を抜かれて耳元で大きく呼ばれた。すぐさま振り返ると、可奈がいた。「来たんだ」「約束でしょ。ってか、すごい汗だよ。一回シャワールーム借りてきたら。なんていうか、顔色も悪いし」「そう?でもあたし平気なんだけど」「駄目、タオルこれもってきたからちゃっちゃと浴びてきちゃいな。どうせ後10分くらいで終わりなんだから」「えっ?嘘、でも45分間でタイマーセットしてたんだけど」「気づかなかったんでしょ?もう1時間以上はこいでたよ。つか、負荷200って。よく足攣らなかったね」「うん」ふくろはぎの筋肉がビキビキと痛む。少なくとも30分近く負荷を200でやっていたのかと思うと我ながらよくできたなと感心する。「じゃあ、お言葉に甘えて浴びてくるね」制服を持って、ロッカールームに行く。鍵をしっかりしてシャワー室へ。温度を30度に下げて浴びる。口に水と汗が入り込む。なんだかしょっぱい。触られた箇所を何度も何度も爪で引っ掻き、赤くなるまで繰り返す。剥ぎ取りたい、この皮膚をすべて剥ぎ取り人工皮膚に切り替えたい。制服に着替えた後も、可奈が心配して迎えにくるまでずっとロッカールームに篭っていた。あたしは、一言もしゃべらずに。可奈も何も無理に聞こうとしなかった。「一人で帰れる?」「うん」「じゃあ、明日ちゃんと来るんだよ」「うん、バイバイ」「バイバイ」エアロバイクのやりすぎか、足元がふらつく。木の幹に躓いて膝を擦り剥いた。「痛い」「大丈夫ですか?」いきなり話しかけられて、心臓が止まるほどビックリした。手を差し伸べながら薄く笑っている後輩。そう真野だった。「平気」手を拒否して自分で立ち上がる。「つれないなぁ先輩」後ろから思いっきりに抱きつかれる。体に戦慄が走った、がくがく足が震える。顔も必要以上強張っていて身が竦む。「触んないで」普段どおりに出そうとした言葉は、失敗してやっと聞こえるくらいの掠れた声だった。「先輩?」「お願いだから、手離して」判ってる。頭じゃ理解してる。怖くない、怖くなんてない。これは真野だし、今日だって屋上でたくさん触られた。あの男の手じゃない。判ってる、それなのに。血の気が引く。気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。吐きそうだ。思わず口を手で塞ぐ。「吐きそう?華先輩、平気ですか?」「離して」思わず涙目になる。真野が嫌いなわけじゃないのに。嫌いなわけじゃない?違う、嫌いだ。「先輩、そんなに触られるのやだ?」「違う、そんなんじゃない」即答した。だけど相変わらず気分は一向によくならなくて。頭によぎるのは毛深い腕。そう思った瞬間、石井のあいつの声がした。「お前ら、とっくに下校時間過ぎてるぞ」「すいません、石井先生」頭を深く下げる真野。暗くてどんな表情をしているのか解らない。「待て、お前田村か?」名前を呼ばれた。嫌悪感が募る、けむきゅじゃらの手足、脂肪を蓄えた腹。にやにやといやらしい笑みを浮かべた顔。全身が拒否する。「そうなのか?返事をしろ」「先生、気分悪いからしゃべれないみたいなんです」「ほぉそうなのか、田村。平気か?じゃあ俺が家まで車で送ってってやるからな。真野、もう帰っていいぞ」冗談じゃない。悪寒が走る。次、2人でいたら何をされるのかわからない。絶対嫌だ。咄嗟に隣にいる真野の手首を掴む。何かを感じ取ったのか何かは解らないけど、真野はあたしの前に立って石井に理由をつけ断っていた。意識が朦朧としているから、何を言ったのかわからない。只、すがりつくように掴んだ手からは嫌悪感が生まれなかった。「先輩、先輩!!!!」「あ?」「あ、じゃないですよ。大丈夫ですか?ってか汗異常に出てる」「大丈夫」「大丈夫じゃないですよ、何?どうしたんですか」「平気だから」掴んだ手首を離す。あまりに強く握っていたもんだから、真野の肌にはくっきりと痕が残ってしまっていた。「ごめん、あたし帰るから」「送らせて下さい」「いいよ、大丈夫」「先輩、俺嫌いでもいいですから。でもこんな状態のは放っとけない」「本当にいいから。もう、関わらないでほしい」言ってから涙が出た。最低だ、あたし。「嘘吐き」「嘘じゃない、本気だよ」「じゃあ何で泣いてんだよ」手を引いて抱き寄せられる。「先輩が思いっきり抵抗したら、諦める」嫌悪感がまた募ってきたけど、力が抜けて抵抗もできない。足が重い、身体も重い。ワイシャツ越しから伝わる体温は夏なのに少しひいやりしている。それに、少し安心を覚えている自分が酷く浅ましく思えた。