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『歎異抄』第十三条に以下のような親鸞の言葉が記されている。
なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし 訳 どんなことでも思う存分にできるものなら、浄土へ往生するために千人殺せといわれたら、そのとおり千人殺しうるであろう。けれども、一人でも殺せる業縁のないときには殺せないものである。 殺さないからといってもそれは自分の心が善いから殺さないのではないのである。またその反対に、殺すまいと思っていても百人も千人も殺す事があるかも知れぬ 『歎異抄』でもっとも有名(?)な箇所は、第三条の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という部分だと思うのだが、最初に通読した時から頭の片隅に引っかかっているのは、「わがこころの・・」である。 親鸞は、「前世からの業縁」という文脈の中でこの言葉を語っている。 善い心のおこるのも前生の善業から催すのであり、悪い事を企んだり、行ったにするのも前世の悪業のはからう仕業である。 私たちは、いつ、どこに、そしてどんな家庭に生まれるかを選択はできない。それは、あらかじめ与えられたものとして私たちの前にある。 飢餓地獄に生まれて、一週間でこの世を去る子どももいる。戦争の真っ只中に生まれ、父も母も失う子どももいる。 それは、昔も今も変わらない。 親鸞はそれを前世からの宿縁、業縁と表現した。それは、私たちが受け入れなければならない宿命、運命なのだ。 難病に罹っていて、二歳までしか生きられなかった我が子を持った親は、「なぜよりによって我が子が」という事態を受け入れねばならない。 九十になった父が、未だに私の兄が三歳で世を去った時の事を嘆く事があるが、親にとって子どもの死はもっとも受け入れがたいものの一つかもしれない。 それを受け入れるために「宿縁」「業縁」という言葉があり、「あの子は運がなかった」という自分を納得させるための言葉がある。 私と兄は同じ時に同じ病気に罹り、私は助かり、兄は死んだ。 死ぬ直前に、兄は「お父ちゃん!」と一言叫んだと父は言う。言って必ず涙ぐむ。 家に放火して母と兄弟たちを焼き殺してしまった奈良の少年のニュースを目にして私が、他人事と思えない、うちの家でもひょっとして・・とつい思ってしまうのは、私が、自分の子育てを振り返って後悔する所が山のようにあるからであり(よくもこんないい加減な親の元で比較的マトモに育ってくれたもんだ)、人間はまったく自分の自由意志に従ってすべての事が行なえているわけではない、と思っているからでもある。 人間はどこで生まれるかも、どの時代に生まれるかも、どの家庭に生まれるかも選択はできない。そして選択できない環境の中で人間の土台が作られるのだ。 劣悪な環境で育った子ども、親子関係がうまく行っていない子ども、信頼できる大人にめぐり合えなかった子どもがすべて犯罪者になるわけではない。 このことは私は驚くべき事だと思っている。 しかし、残念ながらそのような環境で生育し、障害を乗り越える事ができずに道を踏みはずしてしまう者もいる。 問題は、今の日本社会がそのような者を構造的に生み出すような社会に傾斜しつつあるという点ではないか。 そのような社会に必要な視点は、「犯罪を犯すような社会のクズは我々良民とは関係ない」「そのような犯罪者は即刻厳罰に処すべし」「犯罪を犯すような者を育てた親もしかるべき責任を取るべきである」といったものである。 政府与党は社会保障費を削り、公務員を削る、と言っている。当然児童福祉、社会福祉に携わる人員も削られるわけで、増員などありえないだろう。それを「改革」と言うわけだ。生活保護も「見直す」そうだ。 安全の危機が叫ばれる社会では、「危機管理」という新しいビジネスチャンスが生まれる。そのようなビジネスを進める人たちにとって、私たちが常に危険に晒されているほうが好都合という事になる。 なぜ安全ではなくなったのか、安全を取り戻すためにはどうしたらいいのかという問いに対しての解決の道筋の立て方を間違えてはいけないと思う。 全ての物事の基礎には「政治」と言うものが厳然として存在するというごくごく当たり前のことをもう一度考えてみよう。 そして、「政権与党である」という事は、この国で起こっていることについて本質的な責任があるという事だ。その責任を取りたくないというなら、バッジもついでに外していただきたい。 料亭に行くことを目指して政治家になった人も居るようだけれど。 「悪い奴ほどよく眠る」という映画がありましたね。私が言いたいことはこれに尽きます。 目の前にいる「凶悪犯」にのみ目をむけていれば、「悪政」は免罪される。 人間を幼少期から支配する「運命」は、本人には責任がないことが多い。それを「環境」と言う事ができるなら、その「環境」を整備する事は私たちができる事ではないか。それを故意にやらないのであれば、確信犯である。 ハート型のアジサイです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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