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3月21日 『現代思想の源流』講談社 西宮図書館 マルクス、フロイト、ニーチェ、フッサールを取り上げている。 なかでも、鷲田清一氏の「フロイト」が出色。マルクスについては、「問題点がある」という指摘の周辺を徘徊している感がある。 ※『国家論』(佐藤優 NHKブックス)のマルクス論は出色。 ニーチェは、様々な立場からの「ニーチェがどのように読まれてきたのか」は、参考にはなるが、新しい視点はなし。フッサールは依然としてわからない。 フロイトは、それまで前提とされてきた「人間は自己の主人である」というテーゼを、「無意識」という概念によって、また、記憶の不正確さ(捏造、或いは意図的忘却など)という事実によって、「人間は自己の主人ではありえない」と転換させた。 「人間は自分でコントロールできない力によって動かされている」という論は、それ以後の哲学に多大な影響を与えている。 また、フロイトの娘によって定式化された「防衛機制」も重要。
3月23日 『西洋哲学史』ドミニク・フォルシェー 白水社 文庫クセジュ 11年3月 西宮図書館
概説書としてはよくできている。メモを取りながら読んだ。このメモを膨らませていくことになるかもしれない。選択の基準は賛否両論あるだろう。 読みやすいが、何が何だかわからないところも多い。
優秀者支配政は宿命的に堕落して勇敢の者たちの政体(名誉政)へと変わり、ついで富裕層の政体(寡頭政)となり、そして自由至上的な平等の政体(民主政)となり、最後にいたって、最もいやしい諸々の欲求が支配する独裁的な僭主政となる。「国家」 p22 ☆プラトンは、独裁政は民主政から生まれると記している。その理路は?
アリストテレス すべて人間は、生来、知ることを欲する。『形而上学』 人間は生まれながらに、本質からして、絶対的なものの理性的認識を探し求めている。
☆これは、帰納法的な結論なのか?デカルトも、「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」と言っているが、この点については疑問符をつけざるを得ない。
技術はまだ個別事例に依拠しながらなにかを製作するさいの、一応理由のある方向整理であるにすぎない。学はまさに普遍的なものに到達し、諸原因から事柄を認識するものである。それ故学とは教えられうるものなのだ。 P25
芸術製作は自然を模倣するものでなくてはならない。一つのヘルメス像の原因 1 質料(大理石) 2 形相(ヘルメス神の形相) 3 動力因(彫刻家) 4 目的因(神を表現する事)
「形而上学=メタ自然学」という語は、自然学の後で論述され教えられるものという事を指し示すが、のみならず、階層秩序的に、より高次のもの、つまり「質料から離れた」「自然を超えた彼方」という意味でもありうる。
☆メタとは、「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「-の後ろの」等の意味の接頭語。 自然学を十分に吸収し学び終えたのちに...という事なのか?
人間はポリス的動物である。国家無き人間がいたとすれば、それは神かけだものか。国家とは単なる動物集団ではなく、自由と理性の産物である組織と諸制度を要する。国家のかなめをなすものは正義であり、正義の原動力は平等である。配分的平等、調整的平等。
キリスト教 無から創造された自然は神的なものも霊的なものも持たない。人間は自然を支配し利用できるようになった。自然は知性的で思慮深い存在者によって創造されたのだから諸々の法則に従っているはずであり、人間はその法則を知りうる。
人間は個別的に救済されるかどうかが問題となる単独者である。人間は神の前では平等である。人間は、意味を持ち、方向を持った時間の中で生きている。そして自由が人間の行為のカギとなる。その行為の結果によって南限が救済されるかどうかが決定される。
悪とは罪であり、人間の自由が神の恵みを拒絶することである。
人間の理想的状態はポリスの中にあることではない。人間が救われるのは神によってのみである。
デカルト デカルトは、実証的近代科学を現実に可能にするための諸条件の基礎を確立した人である。 デカルトは、懐疑を不懐疑的なものを発見する一つの方法として確立した。
ルネサンスという時代が遺産として残した雑然としたガラクタの山からきれいさっぱり縁を切ることが出来るようになった。
真理はただ明証によってのみ測り知られるようになり、理性は理性自身に対してのみ説明責任を負うようになった。
私が疑い、欺かれ、すべてが虚偽であるとしても、そうしたすべての事は私が思考しているからなのだ。
思考、主体、意識でないあらゆるものはすべて「延長する物体」に属する。そしてそれらは物理学の法則に従っている。 蜜蝋は実在である。しかし熱すると形を変えてしまう。その変化するもののみが科学の対象である。それは精神の作用によって捉えられる。 思考は科学の対象とはならない。 生命は身体に属するものであり、動物は一つの機械である。思考は生命から切り離されている。
パスカル パスカルの人間観 無限の空間におびえ、何故自分がここにいるのかという理由も知らされていない。人間は真理を見分ける力を持っているかどうかも疑わしい。これが人間の悲惨さである。しかし同時にこれは人間の偉大さでもある。人間は自らを悲惨なものとして認識できる。自らの自然的本性から距離をとることさえできる。
ニュートン(1643~1727)に魅了された人びとは学知のための数学的モデルを放棄し、物理学的モデルを選ぶことになろう。理性は自然主義的でありかつ機械論的なものとなる。つまりすべての実在的なものは一つの機械として生産され、再生産されうると考えられるようになる。
カント 認識論におけるコペルニクス的転回とは、主観の側に客観が基礎づけることのできない客観性の鍵を求めるところにある。認識されたもの(客観性)の外在性のうちに迷い込んではならない。そうではなく認識の可能性の諸条件へとさかのぼることが重要なのである。 「私は何を知りうるか?」 人間の根本的な問題とは、それなしには生きていくことが出来ないような人間の実存の意味の問題である。 思弁ではなく、実践において人間の人間性は賭けられている。 認識の限界はどこにあるか?
ルソー 人間性の堕落とは人間性の発展という事である。 衣服はあらゆる社会的な仮面を用いて、存在と外見の分裂を追認し多様化する。私有。社会の組織化によって人間は他者を必要とするようになり、欲望し満足するために他者を経由しなければならなくなる。 武力は権力者にとっての権利を擬装する事であり、隷属する人々の弱さを義務に擬装する。 人間の真なる唯一の務めは自己の全能力を開花させて生きるところにある。 ルソーは近代民主主義の父なのか、全体主義の予言者なのか?
3月25日 『「ケータイ・ネット人間」の精神分析』小此木啓吾 飛鳥新社 2000年12月 西宮図書館 「心理学」という学問はこう言うものなのか?「なぜこういう事件が起こったのか?」という問いに対して、「ケータイ・ネットは人間の心理にこう働きかける」という分析はある。しかし、何故そういう心理になるのかについての社会に対する分析は少ない。企業に対する不適応についての分析はあっても、企業そのものに対する分析はない。まるで不適応がわがままであるかのような記述があり、曽野綾子の言が肯定的に引用されている。 ああそうでございますか、といった感じ。 Eテレで放映していた「アメリカンドラッグ 麻薬戦争」の視点とは大違い。 Eテレで放映していた「アメリカンゲットー 麻薬戦争」の視点とは大違い。 世界の総人口の5%を占めるアメリカは、世界の服役囚の20%を占める「刑務所大国」でもある。 なぜ麻薬が蔓延するのか。番組は、「麻薬があらゆる犯罪の根底にある」というイメージを作り出し、マスコミを通じて流される情報の中に意図的な操作があることを報じる。それは、「黒人のスラム街でいかに多くの麻薬が売られているか」という映像である。結果として、麻薬の常用者は白人、黒人を問わずに存在しているにもかかわらず、黒人の逮捕、服役囚が白人のそれを大きく上回るという事になる。 初めて知ったのは、ニクソンの対策。彼は麻薬対策予算の三分の二を更生プログラムに割いていたという事。しかし、選挙が近づくと厳罰主義に転換、候補者は、厳罰主義を公約に掲げないと当選できなくなるという事態が生じる。 その方向はレーガン政権下で「麻薬犯罪についての刑罰は必ず20年を超えねばならない」という法として結実する。 そして、20世紀の末あたりから、貧しい白人が逮捕され、服役するケースが急増する。これは、「人種の平等」が実現したわけではなく、アメリカ国内での経済格差の拡大と並行して起こっている。 貧しい黒人街では、麻薬を売りさばいて小金を稼いだ連中は子どもたちのヒーローとなる。バスケットシューズを買ってくれたり、アイスクリームをおごってくれるからだ。両親や兄弟姉妹を麻薬がらみの犯罪で失ったりして後に初めて「なぜ麻薬に手を出してはならないか」が分かるというのはあまりにも悲惨である。 刑務所が街を支える一大産業となっている地域もある。 もちろん、麻薬に手を出すことが犯罪であることについては論を待たない。また、同じ環境に置かれても麻薬に手を出すことなくまっとうに生きていく人間がいることも事実である。しかしこの番組は、それらの点をきちんと押さえつつ、なお、アメリカという社会の持っている構造的な問題に迫ろうとしている。
3月26日 『国家論』佐藤優 NHKブックス 2007年12月 西宮図書館 大量の付箋を貼りつけた。知的刺激に満ちている本。 結論として彼は、国家は悪であるが必要でもある。その本質は暴力であるが、それを人間は努力によって抑えることが出来るとする。 また、新自由主義に対しては批判的であり、その根拠は、新自由主義は地球環境をも利益の前には犠牲にしてはばからないという点にある。 左翼と右翼の定義。 「左翼とは理性と進歩を信頼し、理想的な国家を構築することが出来ると信じる人間を指す。右翼は、理性には限界があると考え、人間がいくら理想的な国家や社会を構築しようとしても、人間の偏見、嫉妬を除去することは出来ないと考える。したがって、人知を超えた神や伝統を信頼する」 かれは、「大きな夢を持て」という。「大きな夢」とは、「貧困が存在しない社会」「絶対に戦争が存在しない社会」などである。これは、ユートピア思想の系譜と言える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.27 21:46:02
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