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『史記』について
一、『史記』の構成と成立について
『史記』は52万6500字からなる巨編である。四百字詰め原稿用紙では1316枚。当時は書写用に木簡が使われていた。木簡一枚は長さ23cm、幅1cm、厚さは2~3mm。一行に三、四十字ずつ書くことが可能で、『史記』全体としては木簡で1万5000枚ほどを必要とした。(『入門 史記の時代』小倉芳彦 ちくま学芸文庫 p291)
筑摩世界文学全集の二巻本では、第一巻は「本紀」「書」「表」「世家篇」であり、「本紀」には、王朝と皇帝の事績が記されている。「書」には礼の変遷、音楽の興亡、天文の記録、治水についての研究、商業活動の移り変わりなどが記されている。「表」には、各国、あるいは王朝別の系譜が記されている。第二巻は「列伝」、これは個人の伝記である。
武田泰淳は、『史記』全巻の構成を以下のように説明している。
「世界の歴史は政治の歴史である。政治だけが世界をかたちづくる。政治をになうものが世界をになう。『史記』の意味する政治とは「動かすもの」のことである。世界を動かすものの意味である。歴史の動力となるもの、それが政治的人間である。政治的人間こそは『史記』の主体をなす存在である。 政治的人間は世界の中心となる。そのために「十二本紀」が作られた。政治的人間は分裂する集団となる。そのために「三十世家」が作られた。政治的人間は独立する個人となる。そのために「七十列伝」が作られた。」『司馬遷 史記の世界』
『史記』の成立を概観しておこう。
『司馬遷の旅』(藤田勝久 中公新書)によれば、司馬遷は少なくとも七回、中国全土を広く旅行している。彼は旅先で何を見、何を聞いたのか、そしてそれは『史記』にどのように生かされたかを知りたいと思った著者は、司馬遷が旅をした地域を踏査し『史記』成立の過程を追っている。 まず明らかにされるのは、司馬遷が父・司馬談から何を引き継いだか、という点である。 たとえば、荊軻が短剣を振りかざして始皇帝に迫った時に薬袋を投げつけた医者から直接話を聞いたということだが、これは年齢を考えれば父・司馬談しかありえないことになる。
司馬遷は直接取材した場合は、以下のように記している。
私は豊と沛に行った。そこで遺老に問い、高祖の重臣たちの家を訪ね、その日常を見ると、聞いていたところとはずいぶん違っていた。彼らが最初に包丁を振るって狗を殺したり、絹を売っていたとき、将来、自分たちが高祖に従って漢王朝で名をはせ、その功徳が子孫に及ぶと知っていた事だろうか。
司馬遷の時代には漢王朝が成立してから90年が経過しており、功臣たちの事績も多くの修飾を施されて語られていたと思われる。司馬遷が最初に旅を行ったのは二十歳のときであり、若い彼は、父やその知り合いが語った功臣たちのイメージを修正する機会を得た事になる。 司馬遷が、文書史料だけではなく言い伝え(口碑)を多用していることについては、後に宮崎市定の指摘を紹介したい。 歴史の舞台に実際に行ってみることは、いつの時代でも何らかの収穫があるものである。
二、司馬遷について
父・司馬談から修史の仕事を受け継いだ司馬遷を思いもかけぬ悲劇が襲う。 これは、中島敦の『李陵』にも活写されている。 漢の武将李陵は匈奴との戦いで奮戦虚しく捕虜となる。その後、負け戦が続いたために、漢の武将たちは、捕虜となった李陵が漢の作戦の秘密を漏らしたからであると何の根拠もない言い逃れを行う。激怒した武帝は、都にいた李陵の一族を皆殺しにせよという命令を発する。誰一人として反対しなかった皇帝の一言に対して、李陵はそんな男ではないと庇ったのが司馬遷であった。 武帝は再び激怒し、司馬遷に死を申し渡す。しかし、司馬遷は死ぬわけにはいかなかった。父から言い付かっている記録書の完成が半ばであったからである。 死を逃れるためにはどんな方法があるか?金を積む?彼は貧乏である。残された方法は、「宮刑」を選択するしかなかった。「宮刑」とは、男性の生殖器を切り取ると言う刑罰である。
「司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情けなや、進退きわまったと知りながら、おめおめと生きていた。腐刑といい宮刑という、耳にするだに汚らわしい、性格まで変わるとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた。『史記』を書くのは恥ずかしさを消すためではあるが、書くにつれ、かえって恥ずかしさは増していたと思われる。」(『司馬遷 史記の世界』)
その時の心境を司馬遷は友人にあてた手紙につづっている。 『史記』(貝塚茂樹 中公新書)より引用する。原文は、班固が記した『漢書』の中に収録されている。司馬遷が『史記』を執筆する決意をした部分に絞って大意を述べることとする。(なお、以下の記述は、『史記』の最後に収められている大史公自序(司馬遷の自叙伝)に述べられていることとほぼ同一である)
人間の心が鬱屈してはけ口がないところに過去について述べた名著が生まれる。不具となった僕も近頃菲才もかえりみずにわが心に思うことをつたない文章に託して世に伝えんと決心した。天下の散逸しようとしている旧聞を網羅し、人間の行動をつぶさに追求し、王朝の興亡を大局的に眺め、成功と失敗の大筋を考え、上は黄帝から現在に及ぶまでを十表、十二本紀、八書、三十世家、七十列伝、あわせて百三十篇の著述にまとめ上げようとした。 それは天すなわち自然と人間との微妙な感応、人間の歴史の古今に渡る変化を研究しつくして、独創的な著述を完成しようとするものであった。不幸にしてこの著作の中途で刑罰を受ける禍に際会した。ただこの著作が完成しないのが惜しくて惜しくてたまらないという一心があったおかげで宮刑という極刑に臨んで平然とし、人を恨む気持ちは全く起こらなかった。僕の心血をそそいだこの著述が出来て、これを永遠に伝え、学問を解する人に伝えることが出来たなら、僕の大きな恥は償うことが出来る。
司馬遷は、宮刑を受けた己の恥についてこの手紙の中で何度も何度も記している。「身体が欠けてしまった」、「最大の刑罰が宮刑である」、「あの恥を思いだすと冷や汗がどっと出て下着を濡らすほどである」と。その恥を忍び、生きることを選択して『史記』の著述にすべてを賭けたのである。 彼は、「人を恨む気持ちは起こらなかった」と記しているが、これについてはのちに述べることとなる。
冷静になった武帝は司馬遷のことを耳にし、おそらく「やりすぎた」という気持ちの現われとして彼に様々な特典を与えたのではないか。無理な推測ではないと思われる。その根拠となるのは、司馬遷が、漢の宮廷に保管されていたであろう様々の記録文書を利用して『史記』を書き上げたという事実である。(この部分は、『「史記」と司馬遷』伊藤徳男 山川出版社 を参考にした)
たとえば、以下のような記述が『史記』の中にある。
項羽の軍に追われた劉邦は、戦車に同乗していた自分の息子と娘を突き落として逃走し、一命を取り留める。幸いに二人は同乗していた部下が援けあげて事なきを得るのであるが。 また、劉邦が亡くなった後の妻・呂后の以下のような行いも記されている。 呂后は、劉邦が寵愛していた戚夫人の息子を殺そうとする。呂后の息子の恵帝は優しい人柄であったので息子を傍において庇うが、恵帝が狩に出かけて息子が一人になった時に呂后は彼を毒殺する。さらに彼女は戚夫人を捕らえて手足を斬り、眼を潰し、声が出なくなる薬を飲ませて人豚と称した。これを見た恵帝は歎き悲しみ、「これは人のすることではありません。私はあなたの子として天下を治めていくことは出来ません」と言って酒におぼれて病気になってしまう。 司馬遷は、自分が属している漢という王朝の恥部をはっきりと記している。参考にしたのは、おそらく一般世間に出回っている文書ではない。それどころか、漢王朝の創業者とその妻の恥部に触れた機密に近い文書であったのではないか。それが可能であったのは、武帝の許可と、「諫言」を重視する漢王朝初期の文化風土であったと思われる。
ただ、このような考え方に対する異論もある。『司馬遷「史記」歴史紀行』村山孚 の該当部分を以下に紹介する。
司馬遷が生まれたのは、いま司馬遷祠がある陝西省韓城県芝川鎮から2,3キロ離れた高門村というところである。 そこには司馬遷の後裔が住んでおり、32代目だそうである。ただし姓は「司馬」ではなく、「同」姓を名乗る一族と、「馮」姓を名乗る一族とに分かれているという。そして、これには、司馬遷の生涯に関する伝説が絡んでいる。 司馬遷が武帝の怒りにふれて入獄したあと、二人の息子が残された。 当時は、「罪、九族に及ぶ」であって、一族がすべて殺戮されるかもしれない。そこでかれらは姓を変えて難を逃れることにした。 だが司馬家の誇りを捨てないため、兄は「司」に一画を加えて「同」、弟は馬にニスイを添えて「馮」とし、今日に及んでいるという。 司馬遷祠に詣でた後、私は韓城県の文化館で司馬遷にまつわる数々の伝説を聞くことができたが、ほとんどが、司馬遷がいかに迫害されたかという話を根底としているのに驚いた。 それによると、司馬遷は獄死し、司馬遷が命をかけた「史記」は、奸臣の捜索の手を逃れて妻が必死に隠し通し、後世に伝わったことになっている。 「史記」が禁書とされたことはありうるのだ。
これは、恐らく史実ではあるまい。しかし、このような言い伝え(口碑)がなぜ残っているのだろう。もっとも確実な推測としては、『史記』が漢王朝の創始者、および妻の多聞をはばかるような事績をも記し、おそらく彼が書き残した武帝記が破棄されたことによるのではないかと思われる。「こんなことを書いた人物が平穏な死を迎えられたはずがない」という思いが彼の子々孫々に受け継がれたとみるべきではなかろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.08.08 09:26:54
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