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山川の『詳説日本史』に、「戦国大名の中で全国統一の野望を最初に抱き、実行に移したのは尾張の織田信長であった」(p158)という箇所がある。いま、この部分が大きく変わろうとしている。『織田信長』池田裕子 吉川弘文館・人物叢書。『織田信長』神田千里 ちくま新書 が問題にしているのが、「天下布武」の印判である。教科書には、「信長は、1560年に今川義元を尾張の桶狭間の戦いで破り、1567年に美濃の斎藤氏を滅ぼして岐阜状に移ると、『天下布武』の印判を使用して天下を武力によって統一する意志を明らかにした」(p159)とあるが、池田、神田両氏が問題にしているのが、この「天下布武」の「天下」とはどこなのかという事である。両氏ともに、同時代の「天下」の使用例を列挙して、「天下」とは「日本全国」という意味ではないこと、広くとっても「畿内」、狭い場合は「京都」を指していることを指摘している。さらに、「天下布武」とは、「信長が武力で天下を統一する意味ではない」と指摘するのが神田氏。氏は、これは、「信長が足利義昭のために京都に治安を回復する」という意味だと解釈している。その根拠は、この印判が押されている手紙の内容にある。友好的な、或いはへりくだった内容の手紙の最後に、「俺は武力で天下を統一するぞ!」という印判を押すとは考えられないと神田氏は説いている。つまり、「天下布武」の主体は信長ではなく、義昭であるというのだ。 極めつけは、岩波新書の「シリーズ日本近世史(1)」「戦国乱世から太平の世へ」藤井譲二 2015年1月。 「はじめに」の6ページを使って、「天下」の用例が、「日本全国」を指すようになったのは、秀吉政権の後期であることを説いている。 「織田がつき、羽柴がこねし天下餅 すわり気ままに食うは徳川」という狂歌が大きく変わろうとしているだけではなく、信長像も大きく変わろうとしている。 ただ、教える立場からすると、難しい。「日本史学界の定説になりつつあるのはこの考え方」と紹介するだけでは事は済まない。信長の全体像をどう構成するかという点についても再検討を迫られ、ついでに、生徒の納得がいくように説明するという難題が待っている。 このままで行くと、改訂版が出る時には、教科書の本文は恐らく変わっているだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.11 21:31:13
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