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まろ0301

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2020.07.14
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日本史A その十四

 

鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は、幕府の軍艦・開陽丸に乗って多くの臣下を捨てて江戸へと逃げ帰り、ひたすら謹慎します。見捨てられた臣下たちは散り散りバラバラになってしまいます。

 

〇鳥羽伏見の戦い 旧幕府軍敗北 慶喜、江戸へ逃亡。

 

ちょっと読んでみます。P329行目から。P3310行目まで。

 

新詳P216の「豆知識」をちょっと見ておきましょう。それは、「倒幕」と「討幕」の違いです。教科書P3119行目には「倒幕」という書き方、27行目には「討幕」と書いてあります。

討幕は、「武力を使って幕府を倒す」

倒幕は、「武力あるいは平和的な手段で幕府を倒す」大政奉還も含まれる。

 

〇討幕 武力を使って幕府を倒す。

 倒幕 武力、あるいは平和的手段で幕府を倒す。※「大政奉還」も「倒幕」。

 

さて、この勝利によって新政府軍は、各藩に対して、態度決定を迫ります。つまり、自分たちにつくか、それとも旧幕府方(「王政復古の大号令」によって「幕府」はすでに廃止されています)につくか。

大坂から西の大名たちは雪崩を打って新政府側につくことを約束します。

 

〇鳥羽伏見の戦いの勝利

 「王政復古の大号令」 大半の大名たちは新政府を支持。

 

さて、新詳P217を見てください。上のほうに日本地図が載っていて、新政府軍が、東海道と東山道の二つの方向から江戸に迫っていることがわかります。もう一つの部隊は北陸方面に進軍しています。

東征軍は、武士、豪農、豪商、草莽(義勇軍)で構成されていた。

その中に、「赤報隊」というグループがいました。

彼らは、「幕府領での年貢半減!」を掲げて東山道を行進しました。ちょうどこのころ、百姓一揆が多発していて、それを抑える意味もあったのでしょう。

 ところが、だいたいもうケリが付いた、勝ちが見えたと思った新政府軍は、相楽達に命じていた「年貢半減」は、相楽たちが勝手に言ったこととし、相楽総三が率いていた「赤報隊」は、「ニセ官軍である」として逮捕、1868(慶應4)33日に処刑しています。

 

〇赤報隊(東征軍の先鋒)、「新政府になった」「年貢半減」を新政府の命令で宣伝。

 農民一揆対策。しかし、勝利確実→「年貢半減」は、無理。

 →「赤報隊はニセ官軍」→相楽たちを処刑。

 

※相楽の孫が、総三の名誉回復に奔走、1928(昭和3)に名誉回復がなされた。

 『相楽総三とその同志』長谷川伸 講談社学術文庫

 

 この本の著者、長谷川伸は、大衆小説家という印象しかなかったのですが、この本と(以前は中公文庫)『日本捕虜志』を読んで、ホントに感動しました。『相楽・・・』は、「神の碑(いしぶみ)」と記されています。また『捕虜志』は、日本軍が、如何に敵の捕虜を大切に扱ったか、日露の際は敵兵をまず葬り、しかる後に日本兵を祀ったと書かれています。太平洋戦争の際に日本軍は敵兵をいかに扱ったか。長谷川の告発が「過去の例を引く」という形で成されています。

(この部分は、生徒向けのプリントにはいれていません)

 

 幕藩体制を倒すためには薩長を中心とする政府は、破壊すればよかったのですが、幕府が倒れ、自分たちが新しい政府を作るとなると責任が生じてきます。 

 幕末に起きた攘夷実行のための事件はたいていの場合、幕府が外国に賠償金を支払っています。生麦事件も、下関での外国船砲撃事件でも。

 

ところが、1868(慶応4)111日に、「神戸事件」が起きました。どういう事件だったのかというと、隊列を組んで行進していた備前藩(現・岡山)の隊列の前をフランス軍の水兵が横切ったわけです。備前藩側は無礼であるということで、先頭にいた滝善三郎という侍が槍で制止しようとしたのですが、言葉が通じずとうとう銃撃戦になってしまいます(死傷者なし)

 新政府は、115日に、幕府から新政府に政権が移ったということを諸外国に通告、同時に交渉を始めます。結局、29日に外国の外交官の前で滝が切腹するということでケリがつくのですが、朝廷の中に残っていた「攘夷」の考え方もなくなります。新政府は、もう自分で責任を取って交渉しなければならなくなったわけです。

 補足しておきますと、三宮神社の近くに、「神戸事件記念碑」が建てられています。大丸の少しだけ東っ側。大丸の近くには、「旧・居留地跡」もあります。

 

 同じような事件は続くもので、215日に、今度は大坂の堺で事件が起きます。上陸してきた仏人水兵が遊びまわって迷惑かけていると通報があり、土佐藩の部隊が「早く船にかえれ」と命じますがなにせ言葉が通じない。水兵たちを捕えようとしたら、彼らは土佐藩の部隊の隊旗を奪って逃げたので、発砲、あるいは水兵を捕えて海に投げ込んで溺死させました。死者11名。全員二十歳代。

 交渉が始まりましたが、新政府側は、222日、賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲みました。

 土佐藩側で発砲した兵士は29人いましたが、交渉の結果、切腹するのは20人でいいということになり、4名の指揮官は切腹確定、あとの25人から16人をクジで選んで、堺の妙国寺というお寺で223日に切腹が執行されています。

 切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵を大喝しています。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請し、結果として9人が助命されました。

 

堺市内の宝珠院にお墓が置かれました。その11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったといいます。

 

〇新政府、外交交渉の当事者となる。「神戸事件」「堺事件」

 

さて再び、東征軍の行動を見ますと、途中で元新選組隊士らとの戦いなどがありましたが、順調に江戸へ向けて進軍、36日の軍議で、江戸城総攻撃を315日と決定します。

 しかし、新詳P217の絵にある様に、旧幕府側の陸軍総裁の勝義邦(海舟)と東征軍総裁の西郷隆盛が313日に会談、勝が「慶喜は隠居し、水戸藩で謹慎」「江戸城は明け渡し、即日田安家が管理する」と提案、西郷は持ち帰って検討すると回答。15日の総攻撃はなくなりました。

 

Qさて、なぜ江戸城総攻撃は停止されたのか?江戸が火の海になることによって被害を受け、勝と西郷に影響力がある人物とは誰でしょうか?

 

〇江戸城総攻撃(315日予定) 勝・西郷会談 パークス、攻撃中止を希望。

 江戸が炎上すれば、横浜貿易にも影響大。 

 

 江戸城は明け渡され、そこへ、薩長をはじめとする新政府軍が乗り込んできま

す。江戸の庶民にとっては、目に余る行為もあったようです。そこで、旧幕臣ク

ラスで組織されたのが彰義隊でした。彼らは江戸の治安を守るという意図もあ

ったようですが、最終的には新政府軍と衝突、江戸の寛永寺を占拠して立てこも

ります。彼らを討伐する指揮官は西郷だったのですが様々な人間関係もあって

結局、討伐役は大村益次郎が担当することになります。彼は徹底した合理主義者

ですから、西郷のようなためらいはありません。薩摩軍の奮戦等もあったのです

が、当時最高の能力を持っていたアームストロング砲で彰義隊を砲撃、1868(

4)515日の一日で彰義隊は壊滅してしまいました。

 新政府軍は北へ北へと軍を進めます。奥羽諸藩は、「会津藩と庄内藩への処罰

軽減」を新政府に嘆願しますが拒否され、そこに長岡藩などが加わり「奥羽越列

藩同盟」を結成して戦いますが、やはり新政府軍の優れた武力の前に壊滅。

 反政府派の中心とみられていた会津藩も徹底抗戦の末に敗北します。会津藩

は、一時は朝廷から京都の守護を任せられ、藩主・松平容保がその役に就任して

います。ですから、「なぜ我々が「朝敵」となるのか?」という気持ちはあったと

思われます。ただ、そのような大役を果たすためには多くの資金が必要であり、

そのために重い年貢が課せられ、この会津戦争の時に、庶民が会津藩の武士たち

と共に戦うことはありませんでした。

 会津藩は、1868(明治元)922日に新政府軍に降伏しています。

会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤー

ヤー一揆(会津世直し一揆)が起きています。

 

 最後の戦いの地は、箱館の五稜郭になります。

 幕臣の榎本武揚、元新選組の土方歳三などが結集して新政府軍に最後の決戦

を挑みますが、1869(明治2)518日に降伏、戊辰戦争は終結します。

 この戦いの中で、箱館病院では院長の高松凌雲が、赤十字の精神で病院の非武

装中立を謳い、敵味方の隔てなく戦傷者の治療に当たっています。高松は、フラ

ンスに留学したことがあり、そこで、「敵味方の隔てなく治療する」という赤十

字の精神を学んでいたのです。当然のことながら敵と一緒に治療されるという

ことに対して混乱が生じますが、高松は断固たる態度で説得、これが日本初の

「赤十字の活動」となります。






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Last updated  2020.07.14 21:26:31
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まろ0301@ Re[1]:「おむすび」から「虎に翼」へ(10/13) maki5417さんへ 歩くことには支障はなく…
maki5417@ Re:「おむすび」から「虎に翼」へ(10/13) 5月の24日に交通事故に遭い左肩と左の大腿…
まろ0301@ Re[1]:入院と退院(08/31) 嫌好法師さんへ とにかく命があった事、…
まろ0301@ Re[1]:入院と退院(08/31) 象さん123さんへ 人生初の交通事故で…
まろ0301@ Re[1]:入院と退院(08/31) つるひめ2004さんへ ありがとうございま…

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