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夏休み、日本史の補習のテーマは、「明治の文化」。一緒に日本史を教えている同僚に頼み込んで、最終日に、「明治の文学」をやらせてもらうことになりました。 初めて『金色夜叉』を読み、「言文一致体」がなぜ生まれたのかを調べ、小説家たちが、新しい日本の文学、文体を生み出す過程をすこしだけ齧ってみました。これは、国文出身者、国語の先生には絶対にできない暴挙です。「私は専門じゃないので」という遁辞を懐に入れて50分。準備するのに約10日ほどかかりましたが、本当に楽しい体験でした。 その中から、いくつか紹介したいと思います。 まず、漱石。準備した資料には加筆していますから、生徒諸君に配布したものとは異なっている部分があります。
夏目漱石1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日) 漱石という人は、ホントにアタマがいい人だなと感じたのは、彼が、「文明開化」について行った講演の速記録を読んだ時です。彼は、日本の開化は上滑りである、と云っています。しかし次にこう言うのです。「私たちは涙をのんでうわ滑っていかなければならないのです」 と。 イギリスに留学した漱石は、産業革命を体験し、煤煙で覆われた空気を体験します。(『世界史A』P82)半分ノイローゼになって帰ってきた彼は、東京帝国大学で英文学を講義し始めるのですが、前任者の①小泉八雲を慕う生徒達から排斥運動を受け、講義中に叱責した生徒が華厳の滝に投身自殺をするという目にあい(漱石に叱られたからではなく、失恋の果ての自殺だったとのちに判明)再びノイローゼに。で、見舞いに来た友人から、「気持ちを晴らすために小説でも書いたら」とすすめられて②雑誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を連載開始、『坊ちゃん』などを書いた後、朝日新聞社に、「小説を書く」という条件で入社、『三四郎』『こころ』などの小説を執筆、胃潰瘍を患って亡くなります。『明暗』が最後の作品(未完)となります。
① 小泉八雲の本名と、その作品を書きなさい。 ② この雑誌の創刊者は?
『三四郎』(1908明治41)年の中に以下のような対話(地方から上京する三四郎と一緒に乗り合わせたひげの男)があります。
「まだ富士山を見たことがないでしょう。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものはなにもない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない」 三四郎は(A)戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。③どうも日本人じゃない様な気がする。 「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、 「亡びるね」と云った。熊本でこんなことを口に出せば、すぐ殴られる。わるくすると、国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はないような空気の裡(うち)で生長した。
③ 三四郎は、なぜ、この髭の男の事を「日本人じゃない気がする」と思ったのだろう?
漱石は髭の男に、日本は今に「亡びるね」と語らせています。この「亡びるね」という一言、漱石は、何を見ていたのでしょうか。推察されるのは、(A)戦争に勝った後の日本の状態です。政府は、戦争を遂行するために、外国から多額の借金をし、国民には「戦争に勝つため」といって重税を課します。新聞は、国の財政が借金だらけということは報じず、戦場に特派員を派遣して盛んに「日本軍の大勝利」を報じます。二百三高地、日本海海戦、奉天会戦で確かに日本は勝利しました。しかし日本は財政的事情によってこれ以上戦争を継続できない状態に陥っていたのです。そのことは一言も報じられず、もちろん政府も隠し通していました。 結局、(B)講和条約では、皇帝ニコライ2世の意向で「賠償金は払わない」という形で決着、日清戦争の際の巨額の賠償金の再現を期待していた庶民は、「講和反対集会」を開催し、その後(C)事件を引き起こします。 庶民の知らないところで戦争が始まる。マスコミ(新聞)はそれを煽る(新聞はそのことによって発行部数を伸ばしています)、政府は戦争の実態を国民には知らせようとしないし、国民はそれを知ろうともしない。漱石は、英字新聞にも、雑誌にも目を通していたのでしょう。そして彼は、「日本で報道されないこと」を知っていたのでしょう。
日本は、1945年8月15日に敗戦を迎えて「亡びる」事になるのですが、漱石は一体何処までの射程でものを見ていたのか。 日本人が、戦前と戦中のことをきちんと学んでいない今、「亡び」は、私たちの将来にあるのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.08.12 21:41:07
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