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過年、二回に渡って、新々刀の祖と言われる水心子正秀について記載しましたが、再度、、川口陟氏著【水心子正秀全集】、黒江二郎氏著の【水心子正秀とその一門】を読み直しています。
川口陟氏は、序文で何故此の書籍を刊行したのか、其の意味を子細に述べていますが、其の意とする所は、共感出来るところ大なる物がありますので、少々長いですが全文を記して、川口氏の労苦に謝意を現わすもので有ります。 序文 水心子正秀は本名を川部儀八郎と言い、現今の奥羽線赤湯温泉在に生まれ、長じて江戸に出て刀剣鍛冶となり、館林藩主秋元候に抱えられ多数の門人を養い、当時やや衰徴の傾向にありたる鍛冶術を復古したる巨人なり。 彼は栄に剣工としての名匠たりしのみならず、今日吾人が最も敬意を表せんとするは、彼に数刊の著書ある事なりとす。然も其の著書たるや、由来秘宝として深く隠されたる刀剣製作術を公開せる事にて、此の著書あるが為に、後世の研究家を裨益(ひえきの意、助けになり、役立つこと)する事すこぶる深大なるものあり、故に吾人は其の著書の世に埋滅せんことを憂い飜刻(ほんこく、原本通り活字に組んで出版すること)して研究家の参考に資せんと欲す。 正秀が門戸を張りて一世に盛名を馳せたる時は、門人百人に餘り門前市を為すの観ありしにも拘わらず、本書載する所の書簡のある物は、彼が老年猶(なお)窮迫を脱する能わざるして、悶々その日を送れることを物語るものあり、又吾人が(刀剣雑話)なる著書に於いて、彼正秀を評伝(人物像を交えた伝記)したる文中には、正秀が過去の名匠の偽作を為して口を糊したる事を記し置けり。 誠に彼は古今に冠絶せる手腕を有しながら、然も充分に製作に没頭して自らの名を鐫(え、益するの意か)るあたわざりし物なり。名匠の報いられざるや誠に同情に値すべし。 然も彼は76歳の天寿を終えるまで、敢然として世路の艱難と闘い、権勢名門に媚びず、常に晏如(あんじょ、やすらかで落ち着いているさま)たるものあり。 当時の彼にしては容易に為し得べかりし何の守をも受領せず、水心子の名を冠して一路技に励みたるの風懐眞(かいしん、心中誠に、の意か)に愛すべく敬すべし。 大正十五年猛夏 不忍池畔の浪居にて 川口陟 上記が水心子正秀全集の序文であります。 【余談ですが、川口陟氏の水心子正秀全集は、大正15年刊行ですから、漢文を読みやすく現代訳に直してあるとは云っても、大正15年の訳文は、読めない漢字も多く読み解くには中々難儀です。一部漢字の意味を記しました。 (水心子正秀とその一門)の著者、黒江二郎氏は、山形県南陽市で歯科医を開業されており、水心子正秀の生誕地赤湯のご当地であります。昭和54年発刊で、川口陟氏の水心子正秀全集より54年後の刊行でありますから、若干読みやすく改訂されています。】 此の書籍には水心子正秀の(刀剣弁疑)【刀剣実用論】等と、門人が業成った時に伝授した【剣工秘伝志・・造刀に関して他に類例が無い秘伝書である】等が集約、網羅されており、此の書簡が残されていなければ、明治以降途絶えた造刀法も、復興しなかったのではないかと考えられています。 これらの刊行本は、水心子正秀と知人、門人との問答や、書簡のやり取りを纏めて刊行された書籍であります。 特に、【刀剣実用論】は水心子正秀在世中に発刊された物であり、其の内容は前編と後編があり、前編は正秀と越後高田藩の藩士【上田常徳】との或問と返答の書簡を編んだ書であり、編者は同門の一関藩士【武広安英】であります。 後編は正秀と上毛安中の【石井定国】との間で答えた返書であり、門人の【松井貞英】が編んだ書籍であります。 此の刀剣実用論は、私にとっては実に興味深い内容であり、私の刀剣に対する基本的な考えを醸成させることになった書籍でもあります。何回読んでも新しい発見があり、興味が尽きることがありません。 一例を挙げれば、相州伝肌物等についてに、(之は問いに対しての答えですが)下記記述有り。 肌物、銀筋多くあり候て、出来の見事なる作は、刃の柔らかなる故、一二三の胴の骨少なき所にかけ、乳割以上の骨多き所は容易にかけ申さず候。もっとも折々乳割なども試し候こと御座候ても、骨に当り候ては、兎角刃のまくれ候物多く御座候。 然るに素人は是をも存ぜず候故、左様の出来をも称美いたし、差し料に致し候人少なからず候。 左様なる刃味の物は、諸職人の遣い候道具などにては、一向用立申さざる物にて御座候。 中略・・・・・ もっとも、沸、匂いの深き物、影移り、銀筋等は下手鍛冶の仕得ざる事には御座候ども、刃味の為には害多く、益少なき物に御座候。 他にも御紹介したい記述も多々あるのですが、後日機会があれば転記したいと思っています。 過年の水心子についての記事は【水心子正秀の遺言】【名工の心意気】左記をクリックして御覧ください。 書籍に掲載されている水心子正秀の肖像画を二枚アップしておきます。 ![]() ![]() 剣工秘伝志は、正秀が其の門人の修行が終わるとき伝授せる秘伝書であります。 其の剣工秘伝志の中巻に、左右の片切刃造りに付いて、其の効用用途について記載があり、今では知る人も居ないのではないかと思い転載致しています。 1、左切刃は、往古首切り刀に用いたりと云えり、首は罪人の左方より切る故に、顎に掛からずしてよしと云う。近世【文化、文政頃】この説を知りたる者少なき故、是を記し置く也。 右切刃は、古来阿州海部より造り始めたりと云う。是を陣鉈と唱え、竹木を切るによし、軽率の指料として大に調法なりと云えり。 江戸期、文化、文政時代でも、知っている者が少ないと云っているのですから、現代に至っては、もとより知る人ぞ皆無ではと思い記載しました。 (注、左切刃とは刀を構えたときに左側になる位置、現代風に言えば差し表側です。) 更に、興味深い記載があります。 【造刀修行心得】の中に下記記載があります 鍛刀するに於いて、上作,下作の区別を書いているわけですが、この中で焼き入れ時に於ける所作を、下記のように書き残しております。 上作に於いては、冷水にて焼刃を渡し、少しも火気を当てず、砂打ちもせず、打ちおろしの時より刃味能く後世迄も能く切れ申し候。 依って、砂打ち、或いは火気に当て加減致し候は下作にて、刃のこぼるる物の事にて候。 この中で、砂打ちとは、打ち下ろし刀の刃を砂盛りに何百回と打ち付ける事により、刃先の脆い部分を取り去る事で、刃毀れせず斬れ味も良くなると云う理屈であります。 私の理解の中では、刃物綱は焼き入れをした後には、必ず焼き戻しをするものだと思っておりましたが、此の秘伝書を読む限りでは、焼き戻しはしていないように読み解けます。幾度も繰返し同様な事を述べていますから、確固たる信念の元に記述されたのでしょう。 焼き入れ時、水船の中で完全に冷却するのではなく、水に入れある程度の時間で出して、刀の自熱で焼き戻し効果を狙っているとも考えられますが、実際に其の様なことが可能なのかどうか、実作者ではない私では断定するのは難しい。 出来ない事ではないとも思うが、詳細な記載は無く、口伝によって伝承されたのかも知れません。 完全に冷却してそのままでは、硬すぎてかえって刃毀れの原因になりそうですが、まあ、其処に秘伝があるのかも知れませんが・・・ 機会があれば、現代刀工に此の点を聞いてみたいと思っています。 他にも興味深い記載が多々ありますので、他日改めて記載際したいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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