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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年06月05日
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カテゴリ:神秘体験空間
 18、19世紀の唯物論的な時代の人々は、最も単純なものから、最も複雑なものへと、進化する進化論を考えるようになった。最初、下等生物に観察範囲を広げた後で、最も複雑な生物までの形態変化を研究し、更に生物ではない、例えば鉱物界に注目し、鉱物界は植物界よりも、どう見ても単純と考えた。

 この考えは結果として、鉱物界からの生命の発生とか、単純な無機的集合体から複雑な有機的集合体へと物質が集合するための初期条件や初期状態といったようなことについて、あらゆる奇妙な問題を生み出すことになり、そして、いわゆる「自然発生説」[Generatio aequivoca]は多くの議論を喚起した。

 自然発生説
 一般には、神の創造行為によらない地球上の生命の発生に関する仮説。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%99%BA%E7%94%9F%E8%AA%AC

 けれども先入観をもたずに観察するなら、上述のような見解は全くの間違いであることが明らかになる。そして、次のように考えるべきである。

 「そもそも、植物から動物を経て人間へと至る進化の方向が考えられるのと全く同様に、今度は逆に、生物から生命を取り去ることで、つまり、動物から、植物を経て鉱物へと至る逆の方向の進化も考えられる。」

 (鉱物から生物そして人間と至るのが、なぜ進化の方向で、その逆が、退化の方向なのか? 人間が最終的存在と考えるのなら、人間はこれ以上進化しないことになる。つまり人間は進化のターミネーターというわけで、人間の知性の発展そのものに矛盾するし、また、なぜ、サルは人間に自然と進化しないのかが説明できない。)

 先に述べたように、今回は、上の誤謬の暗示だけにとどめる。後の考察で更に明らかになる。

 進化というものを、鉱物から始まって植物を経て、動物を通って人間に至る、という風に考えるのではなく、出発点を中間に取って、植物から始まり、動物を経て人間に至る一方の進化を考え、今度は逆に、鉱物へと下っていく、他方の進化を考えると、つまり出発点を鉱物に置かず、中間の植物に置いてみれば、一方は上昇する進化を通じて、他方は下降する進化を通じて現れてくる。

 (進化も陰陽で考える。素粒子の世界も、陰陽を数理的に、鏡像「カイラル」対称性などで置き換え、場と粒子の交換などで表現している。現段階では、素粒子の生成、消滅を、数理的な演算子で行列表記しているが、そのうち、ファイバーバンドル「束、集合体」でつくられた流体のようなもので表記するようになるだろう。超弦理論は、その端緒にすぎない。)

 以上のことから、次のようなことが洞察できる。

 「植物から鉱物へ、特に、これから見ていくように、究めて意味深い鉱物の金属へと下降していく、下降する進化は、それと鏡像対称性をもつ(相反する)上昇する進化に対して、全く特別の関係を有する力を現出させる。」

 という事実である。

 (植物から鉱物への下降の進化では、再生力とは、対極の化石力が現れる。再生力は、数理的に、高次元力で、次元を増やし、化石「結晶」力は、低次元力で、次元を減らす。)

 とどのつまり、

 「鉱物においては、どのような特別の力が存在するのか?」

 という疑問に辿りつく。この特別な力を研究するには、下等生物において研究してきた再生力を、鉱物においても研究する必要がある。

 鉱物の場合、この力は「結晶化」のなかに現れる。この結晶化が、非常に明確に示す事実は、下降する進化を観察するときに現われる力は、上昇する進化を観察するときに現われる再生力と関係するが、同じではないことである。

 従って、鉱物のなかの力を、人体に供給する場合、新たな疑問が生じる。この疑問によく似た以前の疑問には、次のように答えることができた。

 「霊魂により、人体から取り去られた再生力を、植物界、動物界から取り出して、人体に供給すると、人体の再生を助けることができる。」

 しかし今度は、「下降する進化、すなわち鉱物界のなかに存在する別種の力を人体に供給すると、どのようなことが起こるのか?」

 今回は、この疑問を挙げ、考察を進めながら詳細に答えていきたい。

 しかし、これまでの考察の冒頭で出された疑問の「自然から治癒経過を密かに学びとれるか」という疑問に対して、自然から、何らかの治癒経過を取り出してきて、人体に供給し、正しい認識から、人体に役立たせるような治療法にはまだ到達していない。

 上述のような疑問において、少なくとも大まかには、霊的な洞察力が獲得できるように述べてきたわけだが、重要なのは、正しい洞察力をもって、自然にアプローチすることである。自然にアプローチすることではじめて、出来事の本質が現われる。

 さて、人体には2つの進化過程が存在し、この2つの進化過程は動物にも存在しているが、動物については、さしあたり重要ではないので省略するが、今までに獲得した知見から観察すると、この2つの進化の過程は、ある意味対立する過程として現れてくる。

 この両者は完全に対立しているわけではないが、誤解しないように「」(括弧)で括るが、「かなりの程度まで」対立的な過程である。これらの対立する過程は、人体に、各々血液と乳汁の形成過程として現れる。

 血液と乳汁という両者は、既に外観的な意味でも異なっている。血液は、いわば人体の隠れた中心へと強力に引き戻されているが、逆に、乳汁は、終いには、むしろ人体表面の皮膚に向かう傾向をもつ。

 人体を観察すると、血液と乳汁の形成過程間の本質的な差異は、血液が、自身のなかに再生力を多くもつ点である。血液には実際、俗っぽい表現を用いるなら、人体全体の予算のなかに、多大の繰越金が割り当てられている。

 つまり、ある意味、血液は、下等生物に認められる再生力をもち、この再生力を自らの内にもっている。ところで、近代科学が血液を観察するなら、非常に重要な事実を指摘できるが、結局、真の合理的な意味において、いまだ(1920年)、重要な事実を発見できていない。

 近代科学は、血液の主成分は赤血球であり、赤血球は増殖能を持たない、つまり増殖力が無いという特性を指摘できる。増殖力が無い、という点は神経細胞と共通だが、共通の特性を強調する際に重要なのは、共通である理由が、両者とも同じなのかどうか、ということにある。

 実は、増殖力がない理由は血液と神経では同じではない。というのも、神経細胞から取り去られたほどの再生力が、血液からは取り去られていないからである。

 実際、イメージ体験の基礎を成す神経は、かなりの程度、再生力を欠いている。生後しばらくの間、人間の神経は、外界の形態に遙かに依存し、それを真似てつくられる。つまり、乳児では、もっぱら外的な影響に適応する能力に比べて、内的な形成力などが後退している。

 しかし、血液では、事情は異なる。血液は、再生力を高度に保持する。この再生(形成)力は、生活上の経験からもわかるように、乳汁(ミルク)にも存在する。なぜなら、乳汁に再生(形成)力がなければ、乳児の健康に良い食品として、母乳を与えることなどできないからである。

 乳児は母乳を必要とする。乳汁のなかには血液と似た再生(形成)力がある。従って、再生力という点においては、血液と乳汁の間には類似がある。

 けれども少なからぬ違いもある。乳汁は確かに再生力をもつが、血液が、再生力の維持のために必須とされる要素を、乳汁は、ほんの僅かしかもたない。その要素とは鉄である。人体内で、鉄は、基本的に唯一の金属で、人体との結びつきにおいて、秩序だった結晶化の作用を示す。

 従って、乳汁は、鉄の他にも金属を微量にもつが、血液は、自らの存続のためには、紛れもない鉄という金属を必要としている、という点に違いがある。乳汁も再生力をもつが、鉄を必要としない。

 では、なぜ血液は鉄を必要とするのか? という疑問が生じる。

 この疑問は結局、医学という学問全体の根本的な問題である。血液は特に鉄を必要とする。これまで触れてきた事実から、その疑問を解決できる判断材料が既に存在する。血液は人体においては、血液自身の本性により専ら病みがちで、絶えず、鉄により癒されるべき特性が確認できる。

 乳汁の場合は、当てはまらない。乳汁が、血液と同じ意味で病みがちなら、乳児の成長のために、乳汁を与えることができないからである。

 血液を観察すれば、常に幾らか病みがちな要素が観察できる。血液は本性により病みがちで、鉄の付与により絶えず治癒され続けなければならない。すなわち、血液のなかで生じる経過により、人間は、人体内に絶え間ない治癒経過をもつことになる。

 (血液が絶えず病みがちな御蔭で、鉄による治癒力をもてる。)

 医師が自然を通じて試行するなら、自然のなかで異常にみえる経過を第一に観察するのではなく、正常な経過を観察しなければならない。

 血液の経過は確かに正常な経過なのだが、同時に、自然自体が絶えず治療し続ける必要のある経過で、自然が、金属の鉄を付与することで、絶えず治療し続ける必要性をもつ経過なのである。

 そういうわけで、血液で起こっている経過を図で示すなら、次のようになる。血液が、鉄なしにもつ構成力は、下に向かう曲線、ないし直線で示され、最終的には、完全な分解に至る(下図、赤線の矢印)。一方、血液中で鉄が働きかける力(結晶化)は、常に上に向かい、絶えず、血液を癒す(下図、黄線の矢印)。

med1-5.jpg  

 実際、上図に示した血液の治癒経過は、正常な経過であると同時に、再生力を与える治療法の基本となる。この基本を用いて、自然を通じて、実際に(治療法を)試行できる。

 鉄による、血液の治癒経過から、外界にある金属を、人間に付与することで、自然が、いかに治癒経過を実行しているか、がわかる。

 そして同時に、人体内にあくまでとどまろうとする血液は癒される必要をもち、人体外へと向かう乳汁は癒される必要がなく、乳汁は、ある程度の再生力をもち、その再生力を他の人体に与え、健全に導く事実も理解できる。

 以上に述べた事実も両極(陰陽)性の類である。血液と乳汁とは完全な両極(陰陽)ではないが、この両極(陰陽)に目を向けなければならない。このような両極(陰陽)を手懸かりに、非常に多くのことが研究できる。次回以降、更に継続していく。

 以上全てを、前もって述べたのは、質問を見て、返答のための概念や基礎知識があれば、まったく違った形で質問に答えられることがわかったからである。





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Last updated  2013年06月05日 16時54分49秒
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