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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年06月27日
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カテゴリ:神秘体験空間
現代人は、いつでも自由に孤独になれ、孤立できるが、古代インド人は共通意識の制御下にあったので、孤独にはなれず、孤立できなかったという。これは、数年前の日本の田舎も、誰々がどうしたとか、ほとんどプライベートがなかった狭い社会環境で想像がつくだろう。端的にいえば、監視社会ともいえるだろう。

これはまるでコンピューターのメインフレームみたいな世界で、いまのパソコンのように、独自=パーソナルに処理できず、古代インド人は、巨大サーバーの端末でしかなかったわけである。

このような古き集合意識は、現代の日本社会にも時折、体育会系組織の上下関係などに、本能的にみられる。

シュタイナーによると、古代インド人は、端末として、情報なら何でも与えてくれる、その巨大サーバーを、ブラフマンと呼んでいたという。

だから、古代インド人は、常にブラフマンと共に生き、意識を与えられていたという。なかにはブラフマンを自然霊と誤って認識していた民族もいたかもしれない。自然霊は、人類よりも遥かに賢いが、だからこそ、いまでも、人類は自然のなかにいる、と思わされている。

現代人のような個人意識をもたずに、ただ、ブラフマンに帰依し、生きる糧や養分を与えられていた。シュタイナーは、それを集合魂=集合自我=集合意識と呼んでいる。

それはまるで、意識的には、母胎に胎児が宿るイメージのようなものである。だから、当時の古代インド人の意識は、ブラフマン母胎の、胎児で、ブラフマンの子と呼ばれたという。

集合自我は、今の動物の持つ意識でもある。動物が群れで行動するのは、この性質に由来し、だから動物の生命力は、人間個人よりも優れている。動物は病気でもなんでも、集合自我によってすみやかに癒され、回復に向かう。

人間の場合、癒しの生命力は、携帯電話スマホの電源のように、睡眠中に、自我が霊界に戻らないと、充電されないので、個人的自我の、カルマの問題となる。

だから、各動物には、かつての人間のようにブラフマンのような統合魂がいて、そのブラフマンにより、生きているので、物質界の出来事を予感し、予想できるのである。

つまり、動物は、人間のように個人意識がなく、何事も集団で生きる存在なんである。

シュタイナーは、一個の動物を取り上げて、動物を語るのは無意味で、例えば、人間の一個の細胞を取り上げて、人間を語るのと一緒と述べている。

そして、動物を外的に、外見的に捉え、例えば、動物の目を、人間の眼と同じように考えるのは、ナンセンスとしている。動物には動物の生きる目的があり、人間には、輪廻転生によって、個人的な自我を道徳的に確立させ、自由と愛の働きを宇宙にもたらす天使になるために生きる使命がある。

つまり、動物を人間と同じに考えるのは、サンキヤ哲学やヨーガでいう、ラジャスなんである。そして、動物を外見から、唯物的に考えるのは、タマスなんである。

動物や人間を宇宙全体から考えないと、物質界の表面的、表層的に一面的に捉え、判断するのは誤解を招き、論争や闘争や戦争につながる。

ちなみに、シュタイナーの人智学を学ぶのによいサイトをみつけたので以下に紹介する。

シュタイナー思想(全記事一覧) | Noos Eggs (cosmolifeology.com)


人間も動物のように集団で結束し、かつてもっていた集合自我を蘇らせるなら、動物と同じかそれを超える、とてつもない能力を発揮できるようになるだろう。

しかし、人間の自我がまだ宇宙の道徳性を身に着けていない限り、すでに地球を崩壊に向かわせているように、宇宙全体を破壊に巻き込む可能性もあるので、個人的意識に道徳性を教えるのが先である。

かつての古代人も、聖書に書かれたバベルの塔の崩壊のように、過った方向に進んでしまったために、古代アトランティスの破局を迎えた。

古代アトランティスの前の古代レムリア時代にも、いわば、人類は破局を迎えたが、それは、意識の上での、しかも、当時の人類はまだ個人意識をもたずに、いわば天使たちの手足だったので、破局は、当時の人類だけの責任とはいえない。

しかし、いずれにしろ、当時のいまでいう科学技術を、民族集団的に、悪用したために、宇宙の法から逸脱し、逸脱したせいで、崩壊したわけである。

現代人は個人的意識から、自由に、カルマを逸脱できるが、その責任は自我が負わないといけないし、もはや地球の崩壊は、天使たちと離れた人類の自由な個人意識によるもので、天使たちの責任とはいえない。

さて、シュタイナーは、現在の物質界が、生命力であるエーテルからできているのを説いているが、それは、人間の個人的自我=意識を発達させるのに、最適な環境となっている。

というのも、人間の個人的自我にとっての、物質界は、サットヴァとなる環境を与えてくれるからである。物欲のない人間は、そもそも物質界には生まれてこないし、自由な個人的意識をもたないからである。

それは、現代人のオタク的な性質をみれば明らかであろう。

もし、物質界が、現在のような環境になっていなかったら、少なくとも、量子力学は生まれてこなかっただろう。しかし、量子力学は物質界を巧く表現できているとしても、それは物質界だけの翻訳機、パスポートであるのに注意しないといけない。

ディラックは、量子力学を相対論とあわせて、負のエネルギーの海を考えだしたが、この考えは、アクエリアス時代の基本概念となるだろう。

というのも、負のエネルギーとは、正にエーテル界の事で、シュタイナーは、物質を無にしていくと、無を超えて、空の虚に辿り着くと説いている。この概念は、仏教の色即是空でもあるが、空がなんであるかが、唯物論に染まってしまい、わからなくなっている。

現代仏教は、色即是空をサットヴァせずに、ラジャスにし、空を霊視できなくなってしまい、唯物論に染まり、空が空の空っぽになって、タマスになってしまったのである。

というのも、仏教界そのものが、せっかく芽生えた個人的意識を、教団のために捧げてしまい、古代アトランティスの古き時代の先祖供養に回帰してしまい、物質界での金銭勘定などの御利益主義にラジャス化してしまったので、個人意識のない宗教活動は、個人を物質界に束縛してしまいタマスとなってしまったのである。

だから、統一妖怪のような宗教のゾンビが生まれてしまうのである。

現代社会は、愛情のない、冷たい利害関係だけの人間社会となっている。そして、なにかにつけ、自己が不利益を被ったとしてクレームするのである。

この深刻な状況を、シュタイナーは、万人による万人のための、万人の争いと呼んでいる。

表層的な物質界を基本に考える現代社会は、まさに闘争のラジャス世界なのである。

再び、物質界をサットヴァし、物質界をつくっているエーテル界にまで、サットヴァしないと、現在の地球環境は崩壊していくだろう。

それはいま行われているスラブ民族間での戦争で明らかである。

古代レムリア民族を源流にする環太平洋周辺のアジア人、特に、中国やロシアには、個人的意識に乏しい面があり、物質界を一面的に捉える習性がある。特にロシア人は、個人個人は個性的で親切でもあるが、集団になると、集合意識に目覚めてしまう傾向をもつようである。

これは日本人にも当てはまるのでわかるだろう。日本人の集団的意識、組織的な意識、民族的意識である。ビートたけし氏の「赤信号皆で渡れば怖くない」は、日本人の特徴をよく表現している。

日本人は、個人的な愛情表現に乏しく、それが恥ずかしいのは、古き集合自我の名残が残っているためである。

どこか、個人的愛情を、扱い難いもので、めんどくさく感じ、集団自我から伝わる、有り触れたもので、当たり前の集団的な感情と、思っている節があるので、誰か他の存在を通じて、自然に伝わるのを期待してしまっている。

以心伝心というのは、古代人の霊能力での伝達方法で、いまや個人的意識をもつ、十人十色の現代人には、通用しない古き電報のような、いまなら、電子メールで伝えるのを、わざわざ訪問して、口頭で伝えるような時代錯誤といえるかもしれない。

 時代錯誤の集合意識から抜け出し、愛の自由な個人意識を目指すために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

         ★       ★       ★

 さて、今度は、嗅覚と味覚を同時に考える。植物の匂いを嗅ぐか、味わうかで、(植物の)エーテル体が、アストラルか、物質体かのどちらかに向かう様子がわかる。

 つまり、嗅覚や味覚を通じて、エーテル体の活動がわかる。

 すなわち、人間の嗅覚や味覚は、エーテル体がアストラル体や物質体と関わり、物質界に現れるのを基本にしている。だから、嗅覚と味覚という知覚活動において、人間の自我は、外界に対して最前線にいるのである。

 しかし、実際、重要なのは、人智学から、真の科学の結実に向けて、これまでの抽象的な神秘主義を脱し、霊を具体的に捉え、理解する事である。相も変わらず、「人間のなかの神性を理解すべきだ!」と語るだけでは、何の役にも立たない。

 このような人たちが、「神性」という言葉で理解しているのは、曖昧で意味不明な、漠然とした神性にすぎない。

 (神の名を語って、自己を高く見せる詐欺行為にすぎない。悟りが何かわからず、悟りを語るようなもの)

 このような考え方に実りをもたらすには、具体的な事象を追求し、外界の活動(経過)を、人体で具体的に観察しないといけない。

(自らで体験し掴まないと、サットヴァできない)

 つまり、例えば、嗅覚や味覚と親和する、外界のエーテルを、実際に観察し、いかにエーテルが、人体に作用するか、

 つまり、人体上部の、最も粗雑な(物質的な)感覚活動(嗅覚や味覚)のなかに、外のエーテルの活動が直接浸透していく様子を観察しないと(本当の神性は)わからない。

 現代において究めて大切なのは、抽象的な神秘主義を脱する事である。

 さて、これから明らかになっていくが、自然では、全てが何か新しい別のものへと絶えず移行していき、自然全ては、ある事象から別の事象へと移り変わる傾向をもつ(諸行無常)。

 では、この変化の原理から再考してみる。嗅覚は人体の表面にあり、それより内にあるのが味覚である。そして、嗅覚や味覚はそれぞれ、エーテルが、アストラルに向かって拡がるか、もしくは物質へと硬化するか、の活動を捉える。

 つまり、植物は、外界に芳香を放ち、気化する事で、外に向かって進むか、もしくはまた、人間等に食べられ、味覚により知覚される事で、芳香とは逆に進み、外で硬化の物質になるエーテルの活動が、体内では消化され、人体のアストラル体に向かう。

 嗅覚と味覚を探求すると、エーテルを通じて、内外で共に変化する、のがわかる。

 自然では常に、ある活動が別の活動へと移行している。植物が、芳香を放つ事で、いわば硬化を免れ、素人じみた表現だが、霊性を大気中に発するが、この霊性に感覚を向けると、大気中の芳香には、幾らかまだ植物の実質が含まれている、のがわかる。

 植物の香りのなかには、なおもその幻影[Schemen](霊性)が存在している。植物が、香りの幻影を送り出し、硬(固定)化を回避するとき、つまり、植物が、花にはなるが、花のままでいるのをやめ、香りを放ち、気化するとき、外界には一体何が生じるのか?

 植物の香りの、その幻影の素は、阻止(止揚)された燃焼活動に他ならない。この芳香という植物の変化を、連続的に考えていけば、次のような結論に到達する。

 「芳香の放出の本質は、阻止(止揚)された燃焼活動である。」

 つまり、燃焼活動が一方にあり、植物の芳香の放出が他方にある。すると、両者に共通する植物統一体の、2つの変化形態(メタモルフォーゼ)が認識できる。言うなれば、芳香の放出は、燃焼活動に至らなかった別段階の活動なのである。





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Last updated  2023年06月27日 16時27分43秒
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