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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年07月05日
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カテゴリ:神秘体験空間
日本には、バカは風邪をひかない、という奇妙な諺があるが、この意味のバカは無神経で、ストレスをためないので、現代では、免疫力が下がらないので、ウイルスに感染しても、高熱で魘されることなく、撃退してしまう、と言う風に解釈されている。

巷では、一時期、ゆとり教育の影響なのか、バカが持て囃されて、偽善者ならぬ、本当はそこそこ知的なのに、バカを装う偽バカが流行した。特に笑いをとるボケ役のために、バカを演じるのが流行ったが、コロナ感染とともに、いつの間にか消えてしまったようにもみえる。

そして、バカの流行の次には、今度は、高学歴、最高学府など、東大、ハーバードなどの偽高学歴が流行りだした。東大、ハーバードといっても、昔と違って、大学院なら、社会人であれば、厳しい受験競争に晒されずに、面接だけで、入学できる場合もある。

おバカブッシュで有名となったブッシュジュニア元大統領は成績不良ながら、おカネでハーバードのMBAを卒業できたと元指導教授が語っていた位である。バカを演じる必要のない、最高権力の、おバカであったらいけない米大統領だったから、正真正銘の最高至上のバカである。

しかし、バカだから、かえって米国民には親密親近感がわき、人気があったので、次なるバカの二番煎じのトランプが出てしまい、人気だけで大統領になってしまい、米国が衰退したのはいうまでもないだろう。そんなことだから、博士号が足の先についた米粒といわれてしまうのである。

というよりも、出身大学で、知性を選別するのもおかしな話で、いかにも唯物論的な思考といえるだろう。

バックミンスターフラーによれば、そもそも大学というのは、王様が、賢い者に、反乱されては困るので、監視し、見張るために、できたという説もあり、だから、西洋の大学は、王立だというのである。

それでも、フランスでは革命を起こされてしまったが、日本の場合は、西洋の事情とは異なり、西洋の知識を取り入れるために、帝国大学ができた。

大学の歴史 - OpenSquareJP|井上貢一研究室 (kyusan-u.ac.jp)


江戸時代はどうかというと、各藩には寺子屋の読み書きそろばんの商業教育や、四書五経の暗記などの朱子学の道徳教育があったようだが、明治維新の焚書などによりわかっていない、というのが実情かと思われる。

というのも、現代で習う日本史でさえ、明治維新後にできた、維新元勲たちの権力者の家系の美談に基づいた定説を基にしている。徳川家の歴史は、勝海舟の創作によるものとも噂されているし、家康が言ったとされる「人の一生は重き荷を負う~」遺訓も、海舟の創作らしい。

それについては海舟の書では、全く触れてないが、慶喜が朝敵で賊軍とされていたのに、徳川家が貴族に復権するのに苦心したと吐露している、のをみれば推測できる。

だから、江戸時代から先の日本史についてはほとんどわかっていない。言ったもん勝ちのようなところがある。重要な書類は悉く焚書されているはずで、偽書も沢山あったから、偽書ばかりが残るから、物質的に探求するのなら、日本を訪れた西洋の宣教師の報告から辿るしかないだろう。

このブログでも紹介している八切氏は、そのような視点から、西洋にわざわざ行って、宣教師の史料を読み漁り、帰ってきて郷土史などの言い伝えを調べて、弱者の視点から、八切史観をつくったのである。だから、そこら辺の政府お抱えの偽善な御用学者の権力の認証を傘にしたゴマすり利権売名説とは違うわけである。

西郷隆盛で有名な吉之助の写真がないのも、信長の正室なのに、奇蝶の記録がないのも、焚書された可能性が高いわけで、西郷は西南の乱で、奇蝶は本能寺の変で、焚書された可能性が高いわけである。残された記録は偽書の可能性が高い。

それも、コピーのない昔は、写本が基本で、オリジナルが残ってないから、写本時に何度も書き直せ、もはや4、5回写本されたら、オリジナルの呈をなしていないだろう。宗教書だって、翻訳や翻訳者により変わるわけで、意味の取違いが生じる可能性は高い。

反仏で、キリスト教を保護した信長の墓が仏教寺に祀られているのもおかしな話なんである。織田家は、原住民の神道の祭祀家系、八田氏を源流にもち、仏教は唐からきた外様なんで、被差別民出の信長から見れば敵そのもので、だからこそ、自身を第六魔王の仏敵だと宣言し、比叡山を焼き討ちしたわけだろう。

反仏の信長がいつのまにか、親仏の信長に代わっている。後世の創作は後の政権にとってはやりたい放題なんである。

ましてコピーができる現代だって、国民が請求しても、黒線で囲い、見えなくされて、偽書同然の呈で公開されるわけである。

だから、江戸時代は、権力者に潰されないように、バカ殿が流行った、というのである。故志村けん氏により現代に蘇ったバカ殿だが、お家騒動で潰されないために、西洋では大学という囲い場があったが、日本にはなかったので、偽バカするしかなかったのである。

幕府にはバカを演じ、地元には睨みを利かせる賢さがないと、お家取り潰しになりかねないわけである。朝廷でさえも、京都所司代が置かれ、幕府から睨まれていたわけで、只管、偽バカに徹するしかなかったのかもしれない。

もしかすると、偽バカが功を奏して、上方に、阿呆文化が生まれたのかもしれない。東のバカよりも、西の阿呆のほうが愛嬌があり、誉め言葉でもあるからである。

京都の裏表文化も、東の幕府には阿呆を装い、裏で、巧く阿呆を演じましたね、幕府を騙しましたね、丸め込めましたね、というような誉め言葉のように使われたのかもしれない。

江戸時代の西側の朝廷や大名には、どこかバカ=阿呆を尊ぶ文化があるようにみえる。

信長は、阿呆ではなく、タワケとバカにされたが、それは田分け、分家という意味から、他家に転じ、主流筋からみた蔑視で言われた、いまでいう外人の意味をもつようである。それは信長が、当時主流の仏教徒からみると、異教徒のような振る舞い、であったのが伺えるわけであるし、それは信長の反仏的態度そのものを表していたともいえる。

さて、人間が天界から追放され、失楽となったのは、悪魔の蛇に唆されて、生命の樹から知恵の実を取って食べたからと聖書には記述されている。

聖書が真実だとすれば、人間が、病気に罹ったり、老いたり、死んだりするのは、つまり、不死でなくなったのは、知恵の実を食べたからだ、と言うことになる。

シュタイナーによると、前回紹介したように、病気は、前世で、悪魔ルシファーに唆された不道徳行為から、カルマに課された、いわば人生の壁、試練である

聖書に書かれた、知恵の実を食べて、不死でなくなり、つまり病気に罹る体をもつようになって、その体で生き、不道徳行為をすると、来世でなんらかの病気に罹る必要が生じるわけである。すると、なぜ、人間は、知恵の実を食べたのに、不道徳行為をするのか、不思議でもある。

知恵とは、不道徳行為をしないためのものではないのか? という疑問が浮かぶ。

問題は、知恵でなく、その実という、果実にあるようである。果実とは、成果という意味をもち、成果とは、結果であり、努力がなければ、成果には達しない。

植物の実は、植物の全働きの成果、つまり全努力の成果で、実がなるわけで、知恵の実は、生命の樹全体の努力で、実がなったわけで、その実だけをとって食べるというのは、努力抜きにして、その成果だけを盗んだ事になる。

つまり、人間が努力して掴んだ知恵ではなく、借り物の知恵なんで、人間は、それへの努力を忘れた分、不死でなくなり、不道徳行為をするようにもなってしまった、というわけなんである。

努力なくして、なんらかの成果を上げようとする、その偽りの、詐欺行為に、問題があるわけである。

シュタイナーは、この人間の偽りの知恵が、悪魔ルシファーに由来すると説いている。人間は、悪魔ルシファーから知恵を借り、いわば知的に詐欺行為しながら、物質界で生きるが、それが他者への不道徳行為にならないように注意しないと、その詐欺が行き過ぎると、来世で、病気となり、その不道徳行為への警告として、苦痛が現れるのである。

だから、知恵はルシファーのものと理解して、バカになりながら、生きないといけない。だからこそ、謙虚さが尊ばれるのである。

故志村けん氏に、受け継がれたバカ殿だが、原典は、故東八郎氏の偽バカにあったらしい。

東八郎 - Wikipedia


老子の出典にもあるように、本当の叡智は、バカにみえる、のである。

             ☆      ☆      ☆   

明道は昧(くら)きが若く、
進道は退くが若く、
夷道は纇(らい)なるが若し。
上徳は谷の若く、
広徳は足らざるが若く、
建徳は偸(おこた)るが若し。
質真はかわるが若く、
大白は辱(じょく)なるが若く、
大方は隅無し。
大器は晩成し、
大音は希声(かす)かに、大象は形無しと。

心の囚われを無くす。道教の祖、老子の名言15選【原文・書き下し文・解説付き】 | 退屈ブレイキング (taikutsu-breaking.com)


             ☆      ☆      ☆

以上の、「明道は昧(くら)きが若く」は、賢者は外見的にはバカにみえる、という意味である。

老子の説く世界は、古代レムリア時代から古代アトランティス時代の叡智であり、古代叡智である。古代叡智も叡智であり、人間が努力しないで、利用すれば、不道徳行為をしやすく、勿論、間違いを犯しやすい。

古代叡智というのは、老子でもわかるが、端的にいえばバランス論であり、中道論である。だから、本当に賢い人は、賢さを見せない人、周囲と調和でき、賢さが目立たない人という意味でもある。

自分が、という、エゴがないから、無我なんで、物質界でなく、心の世界や、霊界でも生きていけるのである。どこの世界でも生きていける永遠さ、永続さをもつから、本当に賢いのである。

要するに、その場に合わせて、臨機応変に振舞えるわけである。バカに合わせる事も出来るし、賢さを発揮出来る事もできる。

これは勝海舟が自著で紹介しているが、有名な西郷隆盛の人物像を、坂本龍馬が評して、「大きく打つと大きく鳴り、小さく打つと小さく鳴る鐘のような存在」と言っているが、大隈重信には、西郷がバカにみえたようである。つまり、西郷は大隈を油断ならない権力志向の存在とみていたようである。

だから、叡智を用いるには、権力者に睨まれないように、細心の注意を払い、謙虚さ、バカさが必要なんである。というのも、叡智はルシファーのものでもあるからだ。人間が努力せずに、叡智を利用すると、権力志向の悪魔ルシファーが寄ってくるわけである。

そうやって、悪魔ルシファーは、人類から手下となる仲間を確保し、知恵の奴隷として、振り込め詐欺の下っ端のように使い捨てにするのである。

シュタイナーによると、人間は、悪魔ルシファーの誘惑のために、物質界に深く浸透してしまい、錯誤を生じさせ、エゴを増大させやすくなっているという。叡智の実を食べたために、肉体=物質体に、深く関わりやすくなり、より分析的、唯物的になりやすくなっているという。

例えば、巷で最近話題の人工知能の使用に対して、お笑い芸人ロザン宇治原氏の回答が秀逸だったので紹介する。

            ☆      ☆      ☆

ロザン宇治原 子供に「夏休みの宿題に生成AI使っても構いませんよ ただ」指導法を提言 京大卒のクイズ王(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース


「もし、先生が子供に言うんであれば、『先生としては、使っても構いません。ただ、あなたの能力は一切伸びませんよ。AIの使い方が伸びるだけで』

            ☆      ☆      ☆

知恵を借りたら、その分の道徳的な努力を返さないと、蛇の道、悪魔の道に堕ちる事になる。

知恵の道を通ったようにみえる悪魔の知恵による詐欺は、一見すると、近道のようにみえるが、道徳の道からは外れ、努力の必要性を忘れ、穢れた地獄に堕ちる、のを覚悟しないといけない。

 まだまだ悪魔の話は続くが、アーリマンが出てこずに、ルシファーだけで盛り沢山になったので、次回に譲り、アーリマンがやってくる前に、せめてルシファーの誘惑に負けないように、謙虚さという偽バカを装いながら生きるために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

            ★      ★      ★

ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」第九講
1920年 3月29日   ドルナハ
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 前回は、外の自然への人体のアプローチについて論じた。そして、嗅覚、味覚という、2つの感覚が働くときの背後のエーテルの相互作用から、外の自然と人体が密接な関係を持つのがわかった。

 外の自然との関係を探求する理由は、人智学では、人体の感覚活動が、外の自然と密接に関係し、治療に際し、その関係を重視するからである。治療に必要なのは、外から人体に与えられる、化学的、生理学的、物質的な活動の何が人体を健康にし、もしくは不足し、病気に至るのか、そして、その要因は何なのか、を見通す事である。

 つまり、外界(宇宙)=全体の活動と、人体=局所の活動とを同時に見通さないといけない。

 さて、この全体と局所の両活動が最も接近するのは、嗅覚と、味覚である。他の感覚=知覚活動では、互いに遠く隔たっている。例えば、視覚(主に外の全体)と消化(主に内の局所)では、両活動がかなり隔たっている。

 消化を、狭義には、口内で食物を噛んでから、腸内の腺による加工までの活動として理解しているので、この狭義の意味だけを消化とみなしたい。

 広義の消化の意味で、他の活動は、人体から物質を出す排泄活動とみなしたい。栄養摂取の為に、腸から、血液を通じて体内に放出する消化や、外への排泄に向かう消化、つまり、腺による加工を過ぎた活動は排泄と呼びたい。

 さて、いま視覚だけに注目するなら、外界の物質活動の表面だけが、視覚で知覚でき、嗅覚と味覚で捉えられる活動が、視覚では、隠されるのがわかる。嗅覚で、外界を知覚するには、外から多くの自然の活動を取り出す必要がある。

 嗅覚で知覚できない活動は、外の物質活動内に閉じこめられ、その表面のみが視覚で知覚できる。つまり外の活動の一部を、例えば、視覚から、外界のその活動の表面を、嗅覚から、その表面の気(揮発)化特性が知覚できる。

 嗅覚では気化特性=微粒子として顕れる自然の活動を、視覚では表面=光の反射面を知覚している。

 嗅覚で知覚される特質を、植物や鉱物の全体性のなかにまで追求すれば、外界の活動の本質、つまり、自らを外の自然に開示している活動なのがわかる。

 そして、嗅覚とは逆の活動が、人体の消化活動である、のがわかる。消化は、味覚で知覚できる、外界の活動を、体内の活動にかえる。消化は、味覚で知覚される外の活動を、体内に移行し、隠す。

 これまで、外の自然の活動を、物質的な感覚で表現せずに、まるで潜在意識下でのように表現してきた理由を説明するのは重要である。というのも、宇宙全体の活動からつくられた関係は、人体にもあるからである。

 人体には、土星、木星等の天体の活動=作用が組み込まれている。しかし、この帰属関係は、人体深くに隠され、今日の唯物的な考え方に対して、あまり不興を買わないように表現するなら、

 「天体との関係は、人体では潜在意識での活動となる。というのも天体の活動=作用の多くは、肉体の背後にある精神的(エーテル体‐アストラル体の)活動となるからである。」

 さて、人間は、天体の活動を、ある形で、肉体のなかで、再び、花開く霊器官(チャクラ)として持っている。ある方法(ヨーガ)で再び開く、この霊器官は、肉体を、地球の周辺で運動する天体と関係づける。

 そこで今度は人体を、(広義の)気象=大気と関係づける。

 だから、治療法について、自然のなかの活動、つまり薬だけを探求するのではなく、人体の活動そのものを探究するには、広義の気象、つまり天気=大気の活動との間に成立する、人体内の関係にも目を向ける必要がある。

 天体の活動=作用により、体内深く組み込まれている霊器官と、気象=大気の作用により深く組み込まれている器官=臓器とに区分できる。とはいえ、正確な観察法が必要となる。

 このような区分が必要なのは、はじめは多少とも衝撃かもしれないが、この区分こそが治療法獲得のための基礎知識となるのが次第にわかるだろう。





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Last updated  2023年07月05日 15時42分32秒
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