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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年10月24日
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カテゴリ:神秘体験空間
人智学的仏教は、仏陀の八正道のいわば要約で、その修行法を完遂すると、喉頭にあるチャクラが右回りに旋回し、霊能力に目覚めるという。シュタイナーは次のような非常に過酷な修行法を推奨している。それぐらい地道で過酷な努力がないと霊能力が獲得できないのだろうが、自分にはとても無理なんだが、一応紹介する。

八正道 - Wikipedia

土曜日―正しい意見=正見
意義のある思考のみを考えるように努める。本質を見通し、永遠なる真実を取り出すように、心の中を静寂にし、いかなる感情も恣意にも委ねることなく、ポジティヴ、ネガティヴに偏らずに、バランスを保ち、中立の自他に共通する、客観的立場を心掛ける。

日曜日―正しい判断=正思惟
細心に至るまで、根拠を求め、充分な熟慮を働かせて、無意味で、無分別な行為を遠ざけて、判断する。常に熟慮し、根拠を明確にし、無意味な根拠に派生する行為は中止し、根拠の正しさから判断し、決断したら、反感や共感から独立し、動揺などから屈しないようにする。

月曜日―正しい言葉=正語
高次の精神的進化を遂げようとするには、高次の真実の愛が必要で、発する言葉に意味や意義がなければならない。無意味で意義のない不用意な発言は慎むべきで、無意味な雑談は有害で忌むべきである。無意味な雑談は避けるべきだが、人々との付き合いは続けるべきで、交流のなかに、真実の愛を育てるべきである。人々との交流のなかで、霊的な役割を洞察し、不用意、不注意でないように、適度に沈黙し、意味ある会話を心掛けるべきである。

火曜日―正しい行為=正業
自分の行為が他の人の妨げにならないように、良心から生じる行為が、全人類の永遠の幸福=天国に寄与できるか、常に前もって考慮して、行動すべきである。

水曜日―正しい見地=正命
自然や精神の流れに適応した生活を心掛け、物質的な変化に囚われないようにし、人生に、不安や喧噪、慌ただしさを持ち込もうとする悪因や衝動を避ける。何事も急いで軽率にならないように、かといって怠惰であってもいけない。人生を、精神的な進化の、真実の愛に捧げるような生き方を模索すべきである。

木曜日―これまでの五正道を習慣にする、正しい習慣=正精進
自分の力にあまることはしない。自分の力でできることは行い、放置しないようにする。人生の日常や刹那の表面的出来事ではなく、その奥の、彼方にある、永遠の生命=真実の愛に眼を向け、人生の目的、理想を打ち立て、それに向かい努力し続ける。

金曜日―正しい記憶=正念
人生からできるだけ多くの真実の愛を学ぶように努力し、人生は万遍なく真実の愛を学ぶ機会を提供している。努力不足で、失敗したり、学べなかった機会は、やり直す切欠になり、学ぶ努力を失わなければ、また必ずやってくるので、準備を怠るな。他者の努力に対しては愛情の眼差しをもって見守り観察しなさい。過去の決断や行為からも、学ぶべきで、真実の愛を見極める能力があれば、どのような人からも、子どもからも、多くが学べる。

毎日―正しい静観=正定
毎日のたとえ5分間でも、同じ時間に、自分の内面を見渡し、反省すべきである。自分のなかの高次の「わたし」と語らい、人生の理想や、描いた天国に、足らない自分を吟味し、これまでの自分の失敗を反省し、少しづつ改善点を見い出しながら、徳の育成に真剣にとりかかり、真実の愛に溢れる、天国に至れるように努力を怠らないように誓いなさい。

これら人智学的仏教の八正道は、不断の努力を必要とするが、それだけ現代での覚醒意識からの、霊能力の道が険しいということでもある。さしずめ、天国への階段は、現代のカネである覚醒意識からは、買えない代物なんである。

しかし、現代のカネの覚醒意識の裏に隠された、潜在意識のなかの、真実の愛からは、前世を通じて、階段を一段づつ上ることができる。過去の潜在意識のなかに、お宝が隠されている。それはキリストと出会った誰しもがもつ、「わたし」となった、「わたし」の体験である。

「わたし」は、「わたし」を与えた「わたし」である、とは、キリストであり、モーセにそれを告げたヤハウエであるテトラグラマトンである。

テトラグラマトン - Wikipedia


さて、つい最近、俗にいうインスピレーションというか、モナリザを描いたダビンチ村のレオナルドの番組を、BSNHKでみたが、自分勝手なシンクロニシティとも感じたのだが、母乳とダビンチから、なぜか、真実の愛として、モナリザがイメージされた。

モナ・リザ - Wikipedia


ダビンチは完成された絵を描かないので有名で、それはダビンチが絵を書くのを一種の修行としていたためかもしれないと思った。ダビンチは、モナリザのなかに、真実の愛を描こうとしたのではないか?と思い、それはイエス=キリストを描こうとしたように、感じた。


勿論、ダビンチは最後の晩餐で、男性的な姿でキリストを描いているが、弟子のヨハネは両性具有かのように中性に描いている。

人智学では、キリストも、仏陀も両性具有とわかっているので、だから、仏陀は悪魔による娘の誘惑に動じなかったのだが、それを絵画で表現するには、従来は西洋では、天使の輪や翼を描き、半ば形骸化した表現法となっていたが、ダビンチは、なんとかして地上でのリアリティをもたせたかったのではないか?と思うわけなんである。

ダビンチの最後の晩餐をみて感じられるのは、キリストを中心に、左側のヨハネらが、キリストの発言に、驚いてはいるが、耳を澄まし、本当なのですか?と肯定している態度を示している点で、逆に、右側のトマスらは、指を立てたり、後ろを向いたりして、嘘だろっというような、否定的な態度を示している点である。

つまり、キリストは中道で、左側が左翼で、右側が右翼を、絵画で現わしているわけである。ただし、キリスト側からみれば、左右が逆になるので、左翼と右翼が逆になる。人類からキリストをみた左翼がキリストの教えを理解し、公開する側で、右翼は、その教えが理解できずに、公開せずに秘した側と考えられる。

イスカリオテのユダは、イエスを引き渡した裏切り者とされるが、キリストの言いつけを守っただけで、キリストが自ら十字架刑を望んだわけで、それは、キリストが、「エリ、エリ、ラエマ、サバクタニ」と、最後に叫んだように、それは、「おぉ、わたしのなかのわたしの神よ、この肉体死の経験のために、この地に降臨し、いまその願いが成就する」と感謝したわけなんである。

そして、キリストは、肉体の死を超えて、エーテル体で甦り、復活し、仏陀の応身とともに、いまも霊魂の不滅を教えて、輪廻転生による成仏を、仏陀と共に指導し、霊視力があれば、その真実の愛の存在がみれる、といわれている。

東洋では、神の擬人法が、仏陀の時代には成立せず、西洋の擬人法の影響から、大乗仏教となって、霊能者の透視力から、仏像がつくられ、仏像に有名な額の白毫と、パンチパーマのような螺髪や王冠で、それらはいずれも霊能力の象徴であるチャクラを物的に表現したものだが、東洋の神の擬人法となっていった。

白毫 - Wikipedia

螺髪 - Wikipedia



つまり、西洋の画家の目的は、真実の愛の擬人化であり、それを描くのがいわば修行でもあったわけで、東洋での彫刻の目的も、同じ仏像に、真実の愛の擬人化を求めたわけで、いずれもその修行であり、その成果でもある。

ただ、ダビンチの場合は、従来の天使の輪と翼を使わずに、人間のなかに体現した真実の愛として、両性具有の存在として表現することで、神の擬人化を追求したとも考えられる。

だから、ダビンチはお金のために絵を描いているわけでないので、作品は未完成で、いわば、仏教徒が、修行のために喜捨~布施を求めたのと同じで、自分をいわば霊能力者のように売り込んで、パトロンを求めたと考えられる。

地に富を積むことは、天国への扉を閉ざし、道や階段に障害物を置く事である。仏教では執着心で表す。

ダビンチと同じく、ノストラダムスも大衆紙に記事を書くことで生計を立てていたわけで、古代ギリシアとは違い、霊能力だけで、生計を立てていくのが困難な時代の象徴的人物ともいえるかもしれない。

仏陀は望めば、地上で永遠と暮らせていけたのだが、俗に豚肉を食べて死んだとされたのは、密教を公開しすぎて、地を支配する悪魔に怒りを買ってしまい、仏陀もせっかく教えているのに、弟子たちの理解が乏しく、弟子の阿難の出来が悪すぎて、なかばこのまま教えを広めても、末法になると悟り、身を引き、涅槃の天界から指導する事にし、後のキリストの降臨に期待したというわけなんである。

そして、仏陀は、応身として、キリストの地への降臨を援助し、以前紹介した、後のコルキスの仏教学院からアッシジのフランチェスコが転生で出て、イエスベンバンディラがつくったエッセネ派を継承していくが、キリスト教のローマ帝国化と、その仏教教団の融合の流れが、間違いだと、仏陀は、キリストに罪滅ぼしとして、助言したわけで、いずれの宗教教団も、消滅していく運命にある。

コルキス - Wikipedia

アッシジのフランチェスコ - Wikipedia

だから、ダビンチの絵が未完成なのと同じように、人類救済はいまだ悪魔の誘惑や攻撃により未完成なままで、地で生きるのは、その未完成な作品である「わたし」の完成のための修行の場で、人生はまだ白紙から、描かれた未完成な絵画や彫刻の状態にある。

キリストや仏陀の意に反し、地上には数多くの戦乱を招く悪魔教団が跋扈する。しかし、それらは自らのエゴにより、滅んでいくだろう。巷の統一妖怪のように、悪の目論見は失敗に終わり、地獄の奈落へと堕ちていくだろう。

未完成なダビンチの絵画を完成させるのは、各々の独自の人生のキャンバスに描く、個人の画家や彫刻家の腕次第なんである。仏を彫って、魂入れずでは、真実の愛が未完成なままで、更なる修行が必要とされる。

未完成な「わたし」という作品を完成させるために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

            ★       ★       ★

 人体への宇宙からの力と地上からの力の均衡を見通せれば、通常、外見からは(霊的な)補完関係にみえない特徴が結びつくのが、一次的病因との関係から、描き出せるようになる。勿論、場合によっては、その結びつきが、潜在意識で強力に働き、肉体に現れる前に、その予兆や警告として表出したい、という意欲が、精神上に現れる場合もある。

 すると、上部で行われなくなった働きを、補完しようとして、壁などに青い斑点で何かを描こう、という意欲が画家のように、現れる事がある。例えば、自分には、芸術家になる使命がある、と感じてはいるが、絵画の技術を、あまり学んでいない人物の体内を、次のように霊的に理解できる。

 このような人物が、下腹部に現れようとする症状を抑えられるほど十分にエーテル体が強靭で頑健なら、下腹部に病気を発症する代わりに、壁などに斑点で絵画を描こうとする。このような人物が描く絵画の表現のなかに、一次的病因が見つけられる。

 このような理解から、赤や黄の色彩に富んだ表現の絵画を描く人の下腹部に病因を探したり、また青紫の色彩で表現する人の人体上部や肺に病因を探したり、もしくは詩句を頻繁につくる人の肺から頭に至る人体上部の器官などに病因を探したりできる。

 上述のような霊的な洞察力を獲得していくと、外界への行為と、体内の活動との間に、不思議な一致が発見できるようになるだろう。絵画の描き方から、体内の機能不全などが洞察できるようになるだろう。

 というのも、外界での行為が、神経だけで成立している、と信じるのは間違いだからである。行為は人体全体に関わっている。絵画は、いわば人体の投影像なのである。

 だから、子供のときに描いた絵画から、元々どういう性質なのか、つまり、どのようなエーテル体をもち、どのように成長し、完成させていくのか、というような人物像=人体構造が霊視できる。

 例えば、前世の障害を、今生の発育不良として引き継ぐ運命を選んだ人は、エーテル体の作用がなかなか人体上部にまで届きにくい為に、幼年期に、ぎごちなく、重々しく歩く傾向をもつ、というような例を、霊視できる。

 軽やかに歩くのか、それとも重々しく歩くのか、の違いから、成長についてのイメージが思い浮かべられる。数多くの同様の現象から、歩き方や仕草などは、体内の活動がそのまま外の運動として現われたものに他ならない、という事実が探究できる。

 以上のような霊的直観力による事実が、医学研究のなかに受け容れられる、のが望まれる。このような事実を受け入れるには、それだけの能力が必要で、二十代はじめの若者なら、まだ能力開発の余地があり、大きな機会が与えられれば能力が獲得できる。三十代に達すると、開発の余地を失ってしまう。一度失うと、もはや、この霊的な直観力を開発するのは容易ではない。

 このような霊的洞察力を獲得するには、究めて強力に自己教育、自己修練しなければならない。また、現代の中等教育や高等教育、とりわけ破壊的な調教にも関わらず、子どものときからの、天性の素質により、維持されてきたイメージ力のなかに回帰する事で、霊視の獲得へと、自らを修練していく事もできる。

 医学研究において、物質よりも微細な、つまり霊的な解剖学や生理学に正しい価値が置かれるようになれば、治療への大きな助けとなるだろう。





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Last updated  2023年10月24日 17時25分28秒
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