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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年06月11日
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カテゴリ:神秘体験空間
エマニュエルスウェデンボルグが、天の理を知っていたと評したニュートンは、「私(自我)は仮説をつくらない」という言葉でも有名で、当時、光を媒介し、伝播している存在と考えられていたエーテル説を嫌っていたと、唯物論者に誤解を与えているが、ボルグの説く「天の理」を理解すれば、ニュートンは、エーテルを物質的に捉えている、当時流行の考えを嫌っていただけで、そのエーテルという専門用語の一人歩きの、実存に対する虚像の、つまりエーテルを直接みれる霊視力もないのに、あるかのような、詐欺師的な態度を嫌っていたようである。

         ☆       ☆       ☆

161 われは仮説をつくらず:仮説と時代 (sgu.ac.jp)

「壮麗きわまりない体系」が、「至知至能の存在」によって生まれたと考えました。ニュートンは、このような運動の法則で規定されない規則性を「至知の意図」や「唯一者」などという「神」に起因させたのです。そこで、有名な「われは仮説をつくらず」(Hypotheses non fingo)ということを述べました。

         ☆       ☆       ☆

ニュートンにとっては、計算も、詐欺師的な態度で、直感的な認識により、自明でないと、天の理を見通したことにはならない、という考えをもっていたようである。上に紹介したリンク先のブログからもわかるが、ニュートンは、天体の運動を、天の理の、神の意志、つまり神意と考えていて、人智学でいうところの、運動霊の力天使に求めていたようである。

ちなみにボルグによれば、神意と認識は、元々は同じものだったという。人間の失楽により、神意から、人間の認識が分かれて、別になった。人智学では、神意が潜在意識で、人間の認識を覚醒意識としている。つまり、人間の覚醒意識は、潜在意識を外側からみているにすぎないので、皮相意識ともいわれる。人間は物質界での経験を基に、潜在意識から、見える部分を覚醒意識として取り出しているにすぎない。

だから、人間は、皮相意識の上に、個人の自我意識を確立している。この自我意識による物質感覚は、エーテル感覚とも呼べる。しかしながら、この感覚はニセモノの自我で、ホンモノの神意の、霊我ではないので、現代人はこの認識を捨て去り、超えないといけない。ニュートンはこの物質感覚を嫌っていたようである。というのも、この感覚は、神意から分かれた認識でしかないからである。ましてや、この認識を数式化するのを嫌ったようである。神意でないものを記述するのはおかしいわけで、偶像崇拝でもある。

残念ながら、現代人はカリユガの時代を輪廻転生で通過してしまったために、ニュートンの本物の力学を直接理解するには、地上で、多様な立場を経験し、心の修行をして、エーテルを直接みれる霊能力を獲得する他はないが、ボルグの書を読めば、ニュートンが考えていたエーテルが、人間が肉体を動かすときの心理のようなもので、宇宙の天体や物体を動かす、神の心理であるのが、自ずとわかるようになってくる。

ボルグは、その書によって、天の理の、つまり神意の、いわゆる宇宙の心理を解き明かしているのだが、人間は誰でも、お釈迦さんや老子が説いたような、「足るを知れば」、この天の理に近づけると、天国の話から紹介している。そして、その足るを知るのに必要なのが、2つの条件で、他人を支配しないことと、不必要に余分な財産をもたないことであるという。

この2つの条件は、いまでは人間がすっかり堕落腐敗して、知性が曇ってしまったので、十戒の10個に増えて、有名になっている。例えば、江戸っ子の、粋の生き方とされた、「宵越しのカネはもたない」の源流は、この不必要に財産をもたない、にあるのかもしれない。あと、他人に指図されない条件がクリアされれば、江戸は天国だったかもしれない。

宵越しの銭は持たない - Wikipedia

モーセの十戒 - Wikipedia

1. 主が唯一の神であること
2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
4. 安息日を守ること
5. 父母を敬うこと
6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
7. 姦淫をしてはいけないこと
8. 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
9. 隣人について偽証してはいけないこと
10. 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと

この十戒を、ボルグ風に言い換えて、より詳細に具体的に説くなら、恐らく次のようになるだろう。
1.主が唯一の神であること⇒天の理の神意を知りなさい
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)⇒神意でない、物質や仮説を信じるな
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと⇒物質や外見に囚われるな
4.安息日を守ること⇒睡眠時間を十分にとりなさい。
5.父母を敬うこと⇒神意の霊の知識と、地での物質界での経験の知識とを両立させなさい。
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)⇒他人を支配しようとするな。
7.姦淫をしてはいけないこと⇒人間をモノ化、奴隷化するな。
8.盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)⇒不必要に利益を上げようとするな。
9.隣人について偽証してはいけないこと⇒自分の則を超えるな
10.隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと⇒自分の足るを知りなさい

この十戒を守れば、誰でも、天の理の、神意に近づけ、天国の、ヘブライ語で、喜びや、楽しみ、愛しさを意味するエデンに住める、というわけなんである。また、ヘブライ語の、ハレルは、神意を賛美するという意味をもつらしいが、日本語の、「晴れる」に近い発音なのが面白い。ヘブライ語と日本語の共通発音は、八切史観の、ペルシャ経由での、ペーの平氏伝来からも読み解ける。ウイキによると、ハレルの語源は、旧約聖書のテヒリームにあり、その単数形はテヒラーと呼ぶらしいが、これは日本語のトーラーの寅の巻にも近い発音でもある。ハレルを、テレルと呼ぶなら、日本語の、「照れる」にもなる。

エデンの園 - Wikipedia

ハレルヤ - Wikipedia


ボルグによると、ハレルは、ヘブライ語のテント(天幕)を意味するアオハルに由来し、それは楽園にいたときの人類が、家族単位でテント生活し、父親を中心に、神を賛美していた信仰習慣に起因し、アオハルが、ハレルになったという。面白いのは、日本語のアオハルが、青春と読めるところである。日本語のテントは、英語の「伸びる」のテンションに由来しているようだが、寺のテンプルの語源が、神殿にあり、神意が地に「伸びる」と派生して考えれば、日本語の「青春」が、低俗俗物化して、寺での交配の隠語になるのも、八切史観から解き明かされて面白い。

ハレルに、ヤハウェのヤーをつけて、ハレルヤーとすると、ヤハウェを賛美する、のヘブライ語となるが、日本語では、ヤーは、大和のヤーで、ヤオロズの八幡神でもある。十戒で、神の名を無暗に唱えるな、とあるように、勿論、ヤーは偽名で、本当の神の名は、YHVHのテトラグラマトンのY、H、V、Hの4つの世界を統合する唯一神の、天の理の神意なのが、ボルグの話からもわかる。ちなみに、エホバという偽名も、以前紹介したように、YHVHに、主のアドナイを母音としてあてはめて、ヤハヴェが訛ってエホバとなっている。いずれも偽名である。

テトラグラマトン - Wikipedia


この4つの世界を、上の天から、下の地まですみやかに妨害なく神意を伝え、バランス良く統合すると、地は天の楽園となる、のが、ボルグの話から明らかになる。だから、この神意をすみやかに獲得する、認識力が、霊能力で、神意が、人間の認識に分かれる前にまで、蘇らせるのが、輪廻転生の目的である。それにはまず人種や民族や文化の壁を乗り越えないといけないわけで、外界に学び、外界に囚われないようにならないといけない。

ボルグによれば、楽園にいたときの、人類は、家族単位でつかず離れずの距離感をもって暮らしていたらしい。当時の人間社会には、神意を伝える父はいたが、政治などはなく、王や僧侶もいなかったという。つまり、人智学でいうところの、集合魂の族長はいたが、それ以外は、族長の手や足だったわけで、天意の神意が、族長という父を通じて、家族に伝達され生活していたので、他人を支配するような、不必要な財産をもつような、そのような機会はなく、不可能だったという。

そもそも、神意がバランスよく伝えられ、妨害されることなく、下から上へと反応されていたので、天国がそのまま物質界に反映していたという。内の心が外の体にそのまま反映している健康と同じである。そして、当時の教育は、子どもが、父のように、神意に達するのを、一人前とし、第2の誕生と呼んでいたという。だから、一人前になるまでの子どもは、父を介して神意が伝えられていたという。

これは現在では形骸化して、つまり肉体の成長具合だけをみて、心をなおざりにした、成人となっているわけだが、本来は、心の眼の、心眼を獲得したとき、いまの仏教でいえば、成仏の意味で、だから、現代人のほとんどが、心の上では、未成年で、この楽園時からいえば、現代人は子どもしかいないことになるだろう。

つまり、現代は、カリユガの時代を通過したために、霊界も成仏できない悪霊ばかりの地獄で、渡る世間は鬼ばかりになっているわけで、安易に霊能力を獲得してしまうと、詐欺にひっかかるように、悪霊の仲間に飛び入り参加させられてしまうので、守護霊により、競走馬のブリンカーのように、外の覚醒意識に集中するように、目隠しされている状態にある。現世でも詐欺的な行為をする者は、いわば悪魔の手下となっている自覚もないので、要注意である。犯罪がバレて刑罰を受ければ改心も生まれるだろうが、バレずに死ぬと、悪霊の一味に強制参加させられて地獄送りなんである。

だから、十戒を守る事が必定で、それでも、天の理の神意に到達するには初歩段階にすぎないようである。物質界で獲得できる物質的な知識レベルは最も低次な知識で、善と悪を見分ける知識だが、この知識に囚われていると、その上の霊的な知識に進めないので、いわば楽園時の人類でいえば、未成人の子どものままでいることになる。しかし、低次の知識とはいっても、良心から、善への方向性が羅針盤として身につくので、ないよりはあったほうが良く、リスク回避の知性にはなる。悪魔が近づく警報になり、子どもが、非行や暴走に走らずに済むわけなんである。

この物質性の知性を超えて、霊的な秩序や、モラルの知性に目覚めると、人智学でいうところの、イマジネーションの霊視に目覚めるようになる。端的にいえば、物質のベールを取り去って、心がみえるようになる。いわゆる心眼の獲得を意味する。心眼を獲得すると、地での教師から卒業し、天の霊界の教師の教えに同意するようになるという。この卒業が成仏で、本当の成人といえる。

そして、更には、その上の、天の教師の教えに自主的に従うようになり、いわば人智学のインスピレーションを獲得する。更にその上の、人智学のインテンションを獲得すると、ボルグが説く神意が瞬時に知覚でき、救世主のレベルに達するという。どうも、ニュートンは、この救世主レベルを目指していたようで、だから、「仮説を述べない」と言ったようである。だからニュートンは物理学だけでなく、他の学問も学び、当時の物理学のような科学は、霊界に参入するための初段階だったようである。それは電磁誘導を説いたファラデーが数式を嫌ったエピソードでもわかる。

全ての知性は、YHVHの神意から発せられるので、その認識を再獲得するのが、学問の主眼となっていたようである。だから、神学や数学や音楽や物理学などの学問の分類は、後付けで、現代の学問から遡って、源流の哲学に達し、更には神話に到達できずに、単なる唯物論での分類論のままでは、せいぜい物質界にいるときにしか役に立たず、しかも死んでしまえば、何の意味もなくなってしまう。

どんな資料や記録書も燃やし消滅し、書き換えられれば、無意味になるのは、聖書の現代解釈が、ほとんど無意味な空想事になっているのでもわかる。キリストを実在の存在とみなせない、キリスト教会もあり、巷にはアンチキリスト教会ばかりが金儲けやら、他人を支配することにせっせと汗水流している。キリストを利用して自らの欲望を遂げようとする悪魔崇拝ばかりの世のなかなんである。

だから、先の十戒により、現代は、YHVHの形態霊から与えられた、人間の自我を知り、その自我の則を超えずに、足るを知り、自我を、天国のエデンのマナスの霊我に近づけ、人体の4つのYHVHの体をバランスよくすみやかに統合し得るような、人間の修行の進化過程にあるのがわかる。足るを知るとは、天国への階段の2つの条件の、他人を支配しないことと、不必要な財産をもたないことをクリアすることでもある。キリストは地に降臨し、実際に実践して、その見本をみせた。

足るを知る者は富む村杉温泉 環翠楼【公式】 (kansuirou.jp)

ボルグはまた自らの宇宙創成論で、天国を説いている。このボルグの創成論は、人智学の人体4体説や、アリストテレスの4大元素説にも共通しているので、そのどれかを理解していればわかりやすい。つまり、それら3つの説を総じて、人智学的にいえば、宇宙は、宇宙の秩序をつくる自我意識から生まれ、意識を反映させる心の内のアストラル界をつくり、内の心を外の肉体の物質に伝えるエーテル界をつくり、そして、外として現れる物質界をつくっていったという。

そして、天国とは、それら4つの世界の循環がバランスしながら瞬時に伝わり連動し巡る、いわば神意の連携がとれた、いわゆる神意の以心伝心が常に安定した状態を指す、というわけなんである。あえて物理学でいうなら、4世界での、角運動量の保存則というべきかもしれない。人体にも、この4つの世界の4層の、いわゆる、人智学でいうところの、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つの体が、調和しバランスをとりながら、内と外とで連携している状態が、健康なんである。端的にいえば、霊と物質がバランスし、相応し、相思相愛で連動しているのが、健康といえる。現代風にいえば、心と体のバランスがとれたのが健康といえる。

だから、物欲に偏り、精神がなおざりになれば、心のバランスが失われ、肉体を制御できなくなって、手探りで探るようになり、無暗矢鱈の過剰反応となり、炎症化し、やがて腫瘍化して、肉体が硬化していき、ついには、肉体を見捨てることになって、自我が肉体から離れ、人間の自我の死を迎えるわけなんである。これを人智学ではアーリマンの領域に下降すると例えてもいる。

逆に、精神主義の、根性論やらイデオロギー、心霊主義などの差別や選民の精神論に偏ると、肉体を酷使して、休息や睡眠時間をとらないようになり、肺炎などから、過労死になってしまうわけなんである。だから、思想家は肉体を奴隷のように酷使し過ぎて肺炎で死んでしまうわけなんである。陽明学の王陽明が肺炎で死んだのは有名である。この行き過ぎた現場無視の、頭でっかちの、いまでいうブラック化を人智学ではルシファーの領域に下降すると例えてもいる。

王陽明 - Wikipedia


 霊の精神と物質とのバランスを失う、この2つの悪しき例が、先に紹介した天国への2つの条件の正反対の、他人を支配するルシファーと、不必要に財産を貯めるアーリマンであるのが、つまり地獄行きの条件であるのが、確認できる。だから、人間が物質界に輪廻転生するのは、この2つの悪しき条件に陥らないように、バランスをとり、クリアするために、つまり、神意に少しでも近づくための修行の場といえるわけなんである。

天国への階段の2つの条件をクリアするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

 

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 ゴルゴダの秘儀は、高次の世界には、死がないため、決して起こらず、死の元型もない。それは物質界にのみ存在し得る死を、再生に導く出来事なのである。だから、ゴルゴダの秘儀が理解できるのは、物質界だけである。地上で生きる人間の使命の1つは、現世もしくは、いつかの転生で、この秘儀を理解することなのである。

 では、この死のリアルさ、その真相、つまり、物質界だけにある、この死の霊的な意味とは何か? 

 それは人間だけの個人の死であり、鉱物、植物、動物などの他の世界や霊界にはないものである。地球の進化過程で生じる歴史的な出来事を理解するには、その元型を、霊界に探すために上昇しなければならない。しかし、ゴルゴダの出来事だけは、例外である。ゴルゴダの秘儀は、物質界だけに霊的な意味を伴って、現実に存在する。

 また、このゴルゴダの出来事についての、唯物論的な観点も明らかになる。それは途方もなく興味深い。今日では、唯物論のため、キリストが死から甦る、ゴルゴダの出来事は、なかったものとされ、この出来事を事実と認めるのは不可能とまで言うのを聞くのは、非常に重要である。

 ゴルゴダの秘儀ほど、物証が困難な出来事はない。これに比べれば、物質界での、人間の知性の発展に重要な、ソクラテス、プラトン、もしくは他のギリシャ人たちの、歴史上の出来事を議論するのが、遥かに容易なのを考えてみればよい。

 現代では、「ナザレのイエスが実際に蘇った」のを、物証できないので、歴史上の痕跡から主張できないと、多くの人は考えているが、その否定的な歴史上の証拠も存在しない。いずれにしても、他の歴史上の出来事と同じように、ゴルゴダの秘儀の真偽は確かめられない。

 この物質界でのみ生じた出来事が、超感覚的な、霊界での出来事と同じ特徴、つまり、物証できない、という特徴をもつのは正に特筆すべき事実である。そして、超感覚的な、霊界を否定する人たちの多くが、同時に、このゴルゴダの出来事を、超感覚的な出来事ではないのに、把握する能力を欠いている。驚くべきことに、キリスト教信者でさえも、この多数のなかに含まれている。

 このゴルゴダの出来事、つまりキリストの再生が現実に起こったのは、この出来事が与える影響でも確かめられるが、唯物論を信仰する人々は、その現実のキリスト再生が、歴史上、実際には起こらなくても、それらの影響が生じ得る、と推測しているのである。

 唯物論者たちは、その影響を社会学的な状況の結果で説明するが、宇宙の創造過程を理解する者には、「キリスト教」の影響が、その背後に立つ、霊界でのキリストの力なしで生じ得た、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と言うのと同じくらい愚かな考えなのである。

 更にいうなら、福音書の著者個人も、ゴルゴダの秘儀という歴史的な出来事を、物証する必要もなかった。というのも、著者たちは、物質界でのキリストの痕跡から、再生後のキリストの姿を読み解いたからである。

 もっともヨハネ福音書の著者は、生前のキリストと直に出会っているが、他の福音書の著者たちが、どうやって、ゴルゴダの出来事を確信できたのか? 

 当時は、伝承や秘儀の書物以上のものはなく、歴史的な出典からは理解できない。この状況については、私の著書「神秘的事実としてのキリスト教」で概説したが、「キリスト=イエス」の霊的な実在を確信できたのは、天体の運動を司る形態霊の働きを通してだった。

 というのも、大宇宙と小宇宙の関係を非常によく知っていたので、霊的な知識、今日でも、獲得できるが、天体の運動を通じて、宇宙進化の重要な転換点を見通せたからである。

 「太陽と地球の運動から、「キリスト」と言われる太陽霊の「存在」が、「地上」に再生した」のが見通せた。マタイ、マルコ、ルカ福音書の著者たちは、太陽と地球の関係から、ゴルゴダの出来事についての確証を得た。福音書の内容については、超感覚的な霊能力で獲得したが、過去、地上でキリストが起こした数々の奇跡の確証は、天動説での天使たちとの交流から引き出した。

 霊的な知識をもつ人は、福音書の著者たちを信じるだろう。福音書についても、歴史的な物証を用いた反論は、ただ不正確を証明するだけなので無意味である。人智学者は、物証とは全く異なる霊的な基礎、人智学による霊的な洞察力を通して得られる基礎の上に立っている、のを明確にしておく必要がある。

 これに関連して、今回の連続講義を通して、確立しようとした霊的な知識について注意を促しておく。それは、人智学が語る現実を、物質的な現実を用いて、物質界でのみ通用する、正しい反論で傷つけ、ダメにしようとしても、不可能である、ということで、人間は、自分たちの個人的に自由な知識に従って、いくらでも、正しいかのような正当性を言うのが可能だが、それによって人智学が否定されることはない。人智学が語る世界は、物質界を含んだ広大な宇宙だからで、ローカルは、グローバルを超えないからである。(大は小を兼ねる。神の法を犯すものは自らを犯す。)





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Last updated  2024年06月12日 09時14分36秒
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