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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年03月27日
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カテゴリ:神秘体験空間
金持ちを騙すのならまだしも、貧乏人を騙すような、迷惑詐欺メールが相も変わらず送られてくる、ネット環境が必ずしも良好とはいえない毎日で、先週から、巷の大谷騒動に引きづられてしまい、ワイドショーに夢中になる、昭和の家庭の主婦と化してしまい、大谷選手の通訳水原氏に、まるでリアルな「コンフィデンスマン」を髣髴とさせるドラマをみるような感じで、詐欺などの、ウソの恐ろしさ、人類の絆を分断する働きに、改めて気づかされる今日この頃である。

コンフィデンスマンJP - Wikipedia

コンフィデンスマンは、「ダー子・ボクちゃん・リチャードの3人を中心としたコンフィデンスマン(信用詐欺師)たちのチームが、悪徳企業のドンやマフィアのボスなど欲望にまみれた金の亡者達から、あらゆる手段を使って金を騙し取るストーリー。」で、スポーツ選手を騙すエピソードはなかったように思う。ましてや国民から好かれるスーパースターを貶める話がウケるわけがない。

このフィクションドラマは、悪者を懲らしめるのが醍醐味で、ドラマ自体がフィクションの嘘だから、ウソのエンタメなんで、嘘の中の嘘だから、面白いのだが、逆に嘘がリアルな現実となると、かえって興ざめしてしまうだろう。詐欺師はフィクションのなかでしか生きられない。

詐欺師はリアルなスターにはなり得ない。所詮、偽物だからである。例えば、スーパースターが犯罪を犯すドラマといえば、古畑任三郎のイチロー選手のエピソードが思い浮かぶ。

古畑任三郎 - Wikipedia

古畑任三郎事件ファイル-episode41/フェアな殺人者 (coocan.jp)


古畑任三郎の場合も、イチローの兄(勿論フィクションなんでウソ設定だが)が重要な役回りを演じていた。このドラマでは、イチローの兄がイチローを庇う話だったと思うが、水原氏の借金肩代わり美談説は、このドラマに非常に良く似ているようにみえるが、所詮、フィクションなんで、ウソの虚構の世界の話なんである。

このように、現代人は日常の詐欺に飼いならされている、といえるくらい、フェイク情報に踊らされやすいのが、今回の大谷騒動の水原借金肩代わり発言に現れている。そのような意味で、水原氏は、ウソの演出家ともいえるのかもしれない。水原氏は、ギャンブル依存症と告白しているらしいが、以前紹介した、某芸人の脳が悪い無責任発言と同じように、ギャンブルのせいにして、責任逃れをしているようにみえる。

1000億円もの日常生活とはほど遠いまるで虚構の金持ちの世界でのみ生きられたウソの演出家だったのかもしれない。ウソの演出家が、リアルな借金をノミ行為で拵えたのを、どのようなリアルな世界の着地点にソフトランディングさせるかで、ホンモノのスーパースターが隣人として現れ、全てを知ってしまったことで、それまで蓄積してきたウソの演出による偽証がバビルの塔のように崩壊してしまった。

それは助けた大谷亀に乗せられて、カジノ竜宮城で遊び惚けて、帰りに借金の玉手箱を渡されて、借金玉手箱を電信で振り込んで賭博胴元口座を開けてしまい、その記録から、実は多額の借金を拵えた詐欺師だった浦島太郎の物語のようで、あるいはまたその妻の一夜限りのシンデレラ物語のようで、結局リアル世界でいうなら、それはキリスト降臨の前に偽キリストとして現れたルシファーのようでもある。ルシファーはウソの演出家で、人類を巧みに嘘で騙し、虚構や幻覚の世界を与えるからである。

前回も紹介したが、そもそも、ウソとは、ルシファーの自惚れた知性にあり、換言すれば、ホンモノと偽物の区別ができない、リアルな認識が欠けている、妄想癖に原因があり、ウソをつくことで、ホンモノを区別する自分の知性を破壊しているのに気づいていない。つまり、今風にいえば、知性のアップデートを放棄するのが、ウソといえるかもしれない。

だから、ウソとは、飲酒で酔っぱらうように、知性に酔っ払うようなものかもしれない。ウソから虚言癖へと進行し、最終的には妄想に生きるようになってしまうわけで、ギャンブル依存症などは、確率的に非常に低い事象が起こるのを期待して、幸福感を高めてしまうわけで、無限の皮算用をはじめ、利益ばかりを求めてしまうので、逆にいえば、自らの知性の低さに虜になり、知性をどんどん遅れさせ、貶めて、退化させているにすぎないのがわかる。無限のバカ、非現実世界を求める行為なのである。

このような妄想に憑りつかせるのが、ルシファーの働きであり、洗脳である。水原氏は、スーパースターの影の功労者として、中学の教科書にも載るように美化されたが、過去の栄光にすがる、その美化されたイメージは、私の記憶のなかでは、大学入試の模試だったかの、国語の問題に、徳川家康が言ったとされる、「世間は事実よりも嘘が少し混じった話を好む」という話を呼び起こした。

家康曰く、世間は事実よりも美談を好むので、リアルそのままよりも、少しばかり虚飾され、盛られた話を真実として信じやすいらしく、有り体にいえば、世間は事実よりも嘘を好みやすいらしい。だから、特に、日本史が美化されたり、戦争から美談が生まれやすく、同じ過ちが繰り返され、繰り返されるうちに、美化されてしまうわけなんである。ついには戦国時代の戦が美化されて、信長の野望のような架空のゲームが生まれる。ウソの世界のエンタメで済んでいれば自由だが、リアルの世界に持ち出されると忽ち厄介な悪魔の存在のようになる。

信長の野望シリーズ - Wikipedia


徳川家康が、戦国期から江戸はじめの時代に、そんなことを言ったのかどうかはわからないが、日本史には年号の問題でもわかるが、美化された嘘が多いのは確かで、それは日本史についての知識が時代によりアップデートされていくからである。日本史の教育が従来の暗記から、歴史的思考を重んじるように変わったのを、巷の最近の動画から知った。それは、現代の科学的思考の流れから、単なる暗記科目では無意味と論破されたために思われる。

その動画をみると、歴史教育の重要さを唱える人達のほとんどが、民族主義者で、歴史上の美談を妄想化しているのに気づき、日本史教育の重要さを唱える人の日本史の知識の浅さに逆に驚かされた。まるで日本史馬鹿の一つ覚えで、日本史の画一的価値観の押し付けで、老害にもみえる。その歴史教育を説く姿は、かつての軍国皇国史観に近い妄想の押し付けといえるかもしれない。

私見では、その中で、唯一マトモだったのが、東大史料編纂所の歴史学者だけだった。一番愚かなのが、日本は美しい国で、美しい文化を持つのを教えるべきという一点張りの姿勢を持つ某自衛隊出の評論家だった。まるで、統一妖怪の教義のように、日本史を捉えているようであった。ギャンブルで一点張りをするのはハイリスクハイリターンである。木を見て森を見ず、といわざるをえない。

どの国にも美しい面と醜い面があるのがリアルな現実である。好きなモノだけを食べていると、それに対応した器官だけが過剰に成長してしまい、病気になるように、全体のバランスが重要で、美しさと醜さは表裏一体なのである。その評論家が間違っているのは、自分の美意識が正しいと思いこんでいるところにある。つまり、その根底には、承認欲や名誉欲、虚栄心が隠れているわけで、これがルシファーの知性、知識欲なんである。

ルシファーの知性、知識欲の本質は、物欲で、支配欲でしかないのに気づいていない。だからその知性には謙虚さが欠けている。謙虚さに欠け、アップデートしない知性は、盲信でしかなく、自滅の知性で、いわば馬鹿の壁を超える、知性のブラックホールといえるかもしれない。要するに、自分が他者から褒められたいために、日本史信仰しているわけで、自分だけが救われたい、と願っている地獄行きの知性なんである。

このような知的態度で、日本史を勉強しても、自分は偉い、凄いと勘違いさせるだけで、日本人は偉い、日本は凄いという知性の麻薬を与えられ、悪魔に懐柔されているにすぎないわけで、その麻薬がなくなると、つまり、美談がなくなると、逆に日本人の悪しき面や、醜い面を覆い隠すだけになるわけで、現に、そのような日本史教育から、日本人や日本は間違いを犯さないという信仰になってしまい、詐欺や詐欺師が横行し、裏金議員のような顛末になってしまうわけなんである。

気づいてみると、現代ではほぼ死んだかのようなゾンビの化石の老害となってしまっている。ウソ詐欺知性の玉手箱を開いた老害浦島太郎である。

昔、インディアン嘘つかない、という宣伝文句があったのと同じで、日本史はウソつかないである。

その某評論家は、日本史を学べば、自信がつくと言っていたのが象徴的だった。これは麻薬がないと生きられないと告白するようなものなのである。端的にいえば、外見だけの中身空っぽの思想なのである。どこかから、美談をもってきて、着飾れば自信がつくのと言っているのと同じで、要するに箔が付く看板を掛け買えたり、ブランド志向なんである。だから日本史の詐欺師を量産するだけなんである。日本史の美談で金儲けしようとする詐欺師にすぎない。つまり、スーパースターを利用した通訳と同じなんである。

歴史の英雄を美談に仕立て上げて、ウソを演出して、歴史家という詐欺師で金儲けするわけなんである。いかに現代人の醜く卑しい下品な、とても美しいとは言えない醜悪な、ルシファーの悪魔の知性の賜物と言わざるを得ない。昭和でいわれた、目立とう精神そのものである。日本史で目立とう儲けようである。日本史から真実を探求するのではなく、日本史を利用して儲けようという魂胆なんである。

歴史を学ぶのは、知性をアップデートするためで、過去の過ちを繰り返さないため、なのがわかっていないアホ馬鹿なんである。あまりにもアホ馬鹿な主張なんで途中で視聴をやめてしまった。なんかそういう妖怪みたいな詐欺師が、巷には老害として跋扈している。知性が手遅れなのに、当人が気づいていないのは、知的ギャンブル依存症に罹っているからだろう。ギャンブル依存症というよりも、日本史美談妄想狂というべきかもしれない。

何より日本史を学ぶ前に、どのように日本史が美化されてきたのかの、日本史編纂史を先に学び直す必要がある。日本史は、その時代によってどのように改変、再編されてきたのか?の方が重要で、その時代の歴史教育がどのように行われ、変わってきたのかの、日本史の教育史をまずはじめにやるべきであろう。

歴史上の人物一人とっても、時代に応じて評価が異なるわけで、それこそが現代に歴史が生きている証拠ともいえるかもしれない。歴史よりも歴史評価史をはじめにやるべきかもしれない。日本史を利用して社会がどのように変わってきたのか、日本史の思想が、人間社会をどう変えてきたのか、が重要なんである。教員が教える内容よりも、学生が日本史を学ぶ姿勢から教えられる事は多い。とにかく教育は一方通行では無意味で、というのも、教育とは、時代と時代の対話だからである。

日本史美談妄想狂から脱出し、知性をアップデートするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

                  ★       ★       ★

 さて、次のような反論も十分に考えられる。

 「神は全能なのだから、わざわざ悪を創造しなくても、自由の舞台を人間に与えられたはずだ。どうして、神は、悪無しに人間に自由を与えられなかったのか?」と反論するかもしれない。

 しかし、この反論は、世界があまりにも複雑すぎる、と考えたスペインの王が、もし、神が、世界の創造を、私に任せてくれたら、もっとずっと簡単にしていた、と述べたのを思い起こさせる。

 人間は、その低次の知性から、世界はもっとシンプルにできたはず、と考える。しかし、賢明な神は、世界の創造を人間たちには任せなかった。

 更に、人智学の観点から見ると、この状況を正確に特徴づけられる。例えば、台が必要な人に、柱を立てれば、物を置ける台になる。それに対して、「いや、他の方法もある! どうして他の方法でやらないのか?」と反論するのと同じである。

 或いはまた、例えば、建物の建設中に三角定規を使いながら、「どうして、この三角定規には三つの角しかないのか? 神様は、三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と言うのと同じで、神様は悪や苦の可能性無しに自由を創造できたはずだ!と言うのは、三角定規は三つの角を持つべきではない、と言うのと同じくらいナンセンスなのである。

 三つの角が三角形をつくるように、自由は、精神的存在たちの「諦め」によりもたらされた悪への可能性からつくられる。いま述べてきた全ては、神の「諦め」からつくられる。というのも、神々は、犠牲を受け取るのを「諦め」ることで、永遠に不死のレベルに上昇した後、悪を善に導き戻すために、不死から永遠への進化を創造したからである。

 この永遠への進化は、この「諦め」という手段からなされた。神々は、自由を与えられる悪を避けなかった。もし、神々が悪を避けていたら、世界は脆弱で単調で退屈なものになっただろう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許し、同時に、悪を善へと導くのに必要な力も獲得した。そして、この力は「拒絶」と「諦め」の結果生じた。

 「諦め」は、偉大な宇宙の神秘を反映する像やイマジネーション(霊視)を与える精神的な存在である。太古の宇宙進化を霊視していくと、犠牲や、与える徳に「諦め」が加わるのがわかり、マーヤや幻想に対峙する真の現実へと到達する人類の永遠への進化として現れる。

 宗教は、このような精神的な像や概念を提供する。だから、聖書を基にした宗教から、犠牲や諦め、もしくは犠牲の拒否といった概念にアプローチできる。





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Last updated  2024年03月27日 16時45分43秒
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