ネット情報の活用法 その1681
昔、90年代に、「哲学の傲慢」という非常に面白い番組があった。その番組に、在野の哲学者という看板で出ていた哲学者が、哲学を解説するのだが、非常に格好良くて、自分も将来、ああいう存在になりたい、と思ったが、高校時代に、物理学で、零点をとった事が切欠で、これではダメだと思い、本屋に行って、内山龍雄著「物理学はどこまで進んだか」という本をみつけ、読んだら、その面白さにハマってしまい、大学は、哲学ではなく、自然哲学の、宇宙を扱う物理学科に進学した。哲学の傲慢 - Wikipedia内山龍雄: 物理学はどこまで進んだか; 相対論からゲージ論へ, 岩波書店, 東京,1983, viii+216ページ, 19×12cm, 1,400円 (岩波現代選書, NS536). (jst.go.jp)当時は、哲学と物理をつなげるのは、宇宙と思っていたので、自然哲学でもある物理を選んだが、電磁気誘導で有名なファラデーは、キリスト教徒でもあったので、当時できたサイエンティスト=科学者というレッテルが嫌いで、自らを、自然哲学者と名乗っていたくらい、中世では、物理と自然哲学は同じだったわけである。そして、ファラデーは、「あなたがやっている事は何かの役にたつのか?」と聞かれたときに、「何の役にも立たない」と平然と応えていたという。マイケル・ファラデー - Wikipediaこのような「物理って一体なんの役に立つのか?」とよく上から目線で、質問されたが、こういう下らない質問に応えるのが馬鹿馬鹿しく、役に立つ、立たない、の議論が無駄で、「貴方は役に立つ事しかしないのか?」と逆に聞き返したい。こういう小馬鹿にした、また、何かするなら、得をしたい、という金儲け的な、エゴ丸出しの姿勢がよろしくない。恐らく、ファラデーは、このような下らない質問をかわしていたのだろう。せっかくやるのなら、無欲に越した事ないのである。欲がないから、本当に自然にやれるわけである。役に立つという考えの下心がみえてよくない。一発儲けてやろうと思うと、必ず破産するものである。人生は思ったようには進まないし、苦労がなければ、心地よい結果にはならない。何かをするのに一々理由を探す必要があるのか? 何のために自由があるのか?先日、剣道のある日本代表のドキュメント番組をBSNHKでみた。「正しい事を成すには困難が伴う」というような事を言っていたのが印象的だった。そして、なにより困難なのが、「自分に勝つ事である」と言っていた。悪魔の誘惑に脆く、自分に連戦連敗の私のような放蕩修行未熟者とは違い、剣道の日本代表といえば、世界一という自負心も背負っているわけで、どこか、古代ギリシアの哲学者のようにも思われた。剣道は江戸時代に発達した日本の精神文化だが、以前、山岡鉄舟の無刀流を、紹介したように、禅を取り入れて、精神の修養鍛錬法になっているようにみえる。どこか古インドのヨーガにも通じるようにもみえる。日本では同じ武道の柔道の、平成の三四郎といわれた古賀稔彦氏は、他人に優しい人になれと、子息を教育していたという。自分に勝てるほど強くなければ、他人に優しくなれないように思える。この柔よく剛を制すの、加納治五郎の、柔道の精神、つまり、やさしさの哲学が、少しでも、おバカプーチンにあれば、地獄に堕ちなかったのに惜しい事である。柔道を学んだくせに、精神を学ばなかった、臆病者の、おバカなんだろう。【柔道チャンネル】柔道用語:柔よく剛を制す (judo-ch.jp)柔よく剛を制す、とは、老子の出典で、老子は、古代アトランティス時代の、エーテル=気功の文化の残滓でもあるので、物質=固体がエーテル=液体とバランスを保っているのを巧く表現した言葉で、つまり、エーテルの液体の運動の柔らかさが、物質の固体の剛さの運動を制御する、というのを意味している。シュタイナーは人智学で、エーテルの濃縮が、物質となると説いているが、人体では、そのバランスが崩れると、炎症や腫瘍となるのは、人智学的医学で紹介した。後世での後付けで、哲学となった古代ギリシアの叡智とは、汝自身を知れ、という、自分を知る叡智の事で、自分を突き詰めていくと、自我を通じて、結局は、神の愛に辿り着くのだから、神に辿り着くまでの修行法の事を、フィロソフィと呼び、それは神の愛にまで浸透する、という意味をもっている。さて、その哲学を通じて、果たして、人類は進化に向かっているのだろうか?というような疑問を、人類同士で、おバカプーチンのような、戦争をする人間がいる事で、度々思い出さざるを得ない。もし、狡賢い悪の宇宙人がいたのなら、「人類のようなバカな生物と戦う必要などない。連中に権威という麻薬を与え、連中同士で戦わせ、骨抜きにして操ればそれで済むからだ。」と言うだろう。そして、「死んだら、同じ人類同士に苦痛を与えた罪で、地獄で扱き使ってやればいい。神から離れ、我々に従ったわけだから、魂を売ったのだから、同じ人類という仲間を裏切るのが、なんせ本人の性根なんだからな」、という悪の論理が成立するだろう。悪魔に従う意志を表明した者に、神ですら手は出せない。自分に従う存在だけを仲間と考えるのは、結局は、自分を過大視する物欲にある。エゴイストである。神が悪魔を生み出したのは、自分に従わない存在をも仲間とするためで、それが精神的な愛なんである。そして、それが進化へのバランスなんだろう。物質科学文明が発展しているので、現代人は人類が進化していると勘違いしているが、精神的な発展、つまり、全宇宙を公平公正の平等によりバランスをとり統一している宇宙意識とつながり、認識するのを進化と定義するなら、実は、人類は、形骸化した哲学をみればわかるように、古代ギリシア以来、退化しているのである。ダーウィンの進化説により、人類はサルから進化したと物質科学では説かれているが、ただ洗脳されているだけで、その方が、カトリック教会と同じように、人類が、他の動物の上に、頂点でいられ、他を見下す権利という理屈を見つけやすく、心地よい我儘にすぎない。ダーウィンの進化説は、人間は、高度の動物と説くが、動物が不必要に他の動物に苦痛を与える事はなく、人間だけが、無益な殺生を行い、同じ人間に苦痛を与え、無責任でいられる。動物は、自分が為した行為が自分に返ってくるのを理解し、苦痛を与えれば、まわりまわって苦痛が与えられるのを理解しているからでもある。動物でさえも、理解している、宇宙意識のなかの平等意識が、意識できないのは、人間には哲学という言葉があっても、おバカプーチンのように、論語読みの論語知らずになっているせいなんだろう。哲学がキリスト教と関係なく分離しているのも、子のキリストが父と同じ存在であると、わからないほど、同じ人類を人類と認識できなくなっている物質知のせいでもある。人間より高次の宇宙人が、両性具有の単為生殖体であるのが理解できないのだろう。人間の霊魂も、両性具有で単為生殖なんである。本当の三位一体とは、単為発生の事である。ただ、人間には進化があるので、異なった時間で現れるだけである。だから、アルファでもありガンマでもある存在が、父と子と聖霊の同じキリスト意識なんである。このようなのが見通せる霊能力を人類が失ってしまったので、同じ存在を違うものと見間違い、論争するのである。だから哲学が、何のために、何かの役に立つのか、とエゴの道具になってしまうわけなんである。だからして、人類は退化しているのである。というのも、哲学がもはや無用の長物と化すぐらい、人類が物欲の金銭欲の虜になり、カトリックを中心とする悪魔教を崇拝し、お互いに論争し、闘争し、ロシアがスラブ戦争をしている現状をみても、いまだ退化した火星人の段階にいる事でわかるからである。古代叡智によると、太陽系では、太陽に近づくほど、精神的に進化を遂げ、宇宙意識から流れる愛に共鳴、共感できる叡智を有する存在なのであるという。だから、水星(古代では金星と呼ばれた)、金星、地球、火星といくにつれて、宇宙意識の神の愛と繋がり難くなるという。シュタイナーのヨハネの黙示録についての霊的な解釈からも、現代人の課題が、人類同士の差別を無くす事なのがわかるだろう。それには、かつての初期キリスト教がもっていた霊視力を、かつてのギリシア哲学を取り戻す事で、獲得する必要がある。前回紹介したように、初期キリスト教が、333年のキリスト教内での論争で、子は父から生まれるので、子は父より劣るという、子キリストの神聖を認めない分派=アリウス派を生んだ事から、カトリックが腐敗堕落し、ギリシア哲学が、死んで唯物化してしまい、ローマ帝国と結びついて、権威化され、腐敗堕落したルシファーのカトリック悪魔教を、再び、元のギリシア哲学に蘇らせる必要がある。カトリック教会 - Wikipediaシュタイナーによると、カトリックは、太陽霊キリストの人類平等の真意を歪め、腐敗堕落し、人の上に教会をつくり、神の権威に虎の威を借りる狐のように、差別につながる階級をつくり、個人の自我自らの自由意識で、太陽霊キリストと結びつき、精神的進化を遂げる機会を奪う教え、つまり、霊、魂、体から、霊を取り除き、魂のなかに霊を含め、魂と体だけの間違った教えを広め、霊を隠蔽し、そして現代では、脳と体で全てを説明しようとする物質科学を生み出す根拠をつくりあげている、というのである。そして、それは、霊のエーテル論を全く無視し、小馬鹿にする現代人の無知さに現れているのがわかる。なんでも遺伝子で解釈し、遺伝を超えられないでいる。父から子が生まれると物質的に遺伝的にしか理解できないから、物質的な外見で、同じ意識をもつ人類を差別できるのである。遺伝子は、前世から受け継がれた自我の壁でしかない。それは与えられた人生でしかない。与えられた人生で満足する者は、自我の壁を乗り越えられず、自分に負ける存在である。王家に生まれしゴーダマがなぜ世の中の他者の老病死の四苦八苦を知り得て、他者の不幸を自分の不幸に感じ、出家したのか?それは遺伝の血を乗り越えるためである。自民族から出て、他民族ともつながり、友愛の絆や、高度な愛の慈悲の意識に目覚めるためである。仏陀は自民族が崩壊に向かっても、民族に拘らない新しい時代を見据えて仏教をつくったわけなんである。だから、出家とは出自や民族や人種に拘らない意識の事である。血縁関係が、前世のカルマから、今生の自分の壁をつくるが、それを乗り越えるべく、キリストの種子が、現代人の個人の自由の自我のなかに芽生えている。遺伝を超える自由が、キリストの自我の中に眠っている。キリストの種子を育て、遺伝の壁を超え、血縁とはかかわりなく、自由に霊我の花を咲かせるのが、現代人の修行目的である。IPS細胞のほとんどは物質的な意味でしか役に立たない、精神的には遺伝的な肉体に執着させる代物だが、どんな細胞も、物質的には、自由に進化できるのを示した、という意味では、人類の自由への教訓となるだろう。しかし、そこにエーテルの働きがなければ植物のような生命体にはならない。遺伝だけでは、悪魔の僕でしかない。悪魔の遺伝の僕から自らを解放し、霊我に至るために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、今回は、以前述べた事例と関係する、古代の治療法を再発見するための、霊的な人体観察を少しばかり行う。 古代では、この霊能的な治療法が高度に養成されていた。古代人が、何らかの異常を感じたら、即座に治療法も思い浮かんだ。この本能的な治癒力は、現代の人類からは失われてしまった。 しかも、現代人が、努力して霊能力=神通力=イントゥションを獲得しても、この古代人がもっていた本能的な治癒力にはほとんど到達できない。けれども、この本能的な治癒力を失った、これまでの時間の流れは、現代人にとっては進化である。それは、覚醒意識の主知主義を経て再び霊能力=イントゥション=神通力の獲得へと向かう、下降から再び上昇へと転換する、進化の流れなのである。 失った多くの霊能力の代わりに、主知主義的な覚醒意識の進化を通じて、生理学と医学を霊的に再構築しなくてはならない。その具体例として、糖尿病を考えてみる。 糖尿病のような異常な進行の根本は何か? 糖尿病を、霊視すれば、自我の弱さに起因するのがわかる。つまり、糖をつくる活動を抑制できないほど自我が弱いのである。だから、糖をつくる活動についての自我の働きを、正しく見通せなくてはならない。 糖尿病は、結果として、血中に糖が多量に流出するので、自我が強すぎるせい、と単純に考えるのは、間違いで、自我の弱さが、その原因である。 というのも、糖尿病を進行させる自我は、糖を適度につくるように、人体の他の3つの体(アストラル体、エーテル体、物質体)と共に同等にバランスよく、参加できていないからである。 この自我の不参加が、糖尿病の本質である。だから結局、糖尿病の進行は、自我の弱さと関係する。例えば、糖分の多い、非常に甘すぎる食事と一緒にアルコールを飲めば、(自我を弱くさせるので、)糖尿病への微かな兆候が体験できる。 このような兆候は、消滅する場合もあるが、自我が弱く、その兆候を改善できないと、糖尿病が現れてくる。 自我や他の3つの体に生じる活動全てに注目してみるのが重要である。これまでの霊的な観察ではまだあまり述べていないが、多くの人々がもつ、次の疑問について述べたい。この疑問については、これからも、詳しく立ち入っていく。その疑問とは、糖尿病で大きな役割を果たしている遺伝である。 遺伝は、自我の弱さに起因する。自我が弱く、アストラル体、エーテル体、物質体と一緒に働かなくなると、遺伝に依存し易くなる。 というのも、単純に、人が皆、遺伝に依っている、と思い込むと、その通りに、遺伝に洗脳されるからである。遺伝に依らない場合もあるのは、結局、自我が強く、良く自由に機能しているからである。 ただし、注意すべきなのは、糖尿病の場合、かなり心理的な要素が関わり、興奮のし易さと、かなり関係する。というのは、自我が弱すぎるため、他の3つの人体に参加できずに、現場視察にいけずに、その周りでウロウロしてしまうので、結局は、脳を通じて、それまでの主知主義を強固に押し進め、遺伝的に、肉体の活動を制限してしまうからである。 自我が弱いと、他の2つの人体、例えば、蛋白質をつくる場所、つまり植物性蛋白質を、動物性蛋白質に変性させる現場にまで入っていけない。つまり、自我が弱すぎて、入っていくべき現場に到達できないのである。 そして、自我が現場に行けない代わりに、それだけ一層、現場でのアストラル体の活動が活発になってしまう。というのも、アストラル体の活動は、主に胸部の律動系で、つまり、栄養消化-血液循環-呼吸活動の全体の活動のなかで、物質体とエーテル体を調整し、バランスを保つために、自我の指揮下で活発に働くからである。 このアストラル体の、胸部の律動活動が、自我が弱いせいで放逐される。この放逐された活動が、他の人体の調整役にならずに、アストラル体中心に、胸部独自の我儘な活動を始める。だから、糖尿病になり易いという遺伝は、自我が、弱すぎて、現場を放棄し、アストラル体から締め出された状態にある。 (膵臓からインスリンが分泌されないのは、その自己抗体ができているせいと現代医学ではわかっているが、これら自己免疫疾患の多くが遺伝とされるのは、自我が弱いためなのがわかる。自分というのが明確に指定できないので、自己を破壊してしまう免疫が生まれてしまうわけなんである。遺伝的でないⅡ型の場合も、自我が弱くなってしまい、放縦な食事や飲酒などの、メタボの、肥満傾向から生じる。) さて、このアストラル体の活動、いわゆる分泌活動はまた、心情、感情と密接に関係している。しめ出された自我が、間接的に、脳を通じて主知主義の活動をより強めるので、分泌活動が、自我に直接管理されずに、その活動自体を我儘にさせる。 このような自我の管理能力の損失から、心理の制御を失い、感情を我儘にさせる、のである。 この感情の爆発とは逆に、興奮させるような出来事が周囲に起こっても、平静さを保てるのは、何故なのか? 冷静でいられるには、自我の叡智を人体全体、つまり腸にまで送り込まないといけない。叡智が、頭脳だけでなく、人体全体に浸透すれば、自我の統一性の下で、平静でいられる、のである。 頭脳だけで色々思案すると、平静でいられなくなる。頭脳だけが主知主義的な活動をはじめると、アストラル体も独自の活動を始める。すると、興奮し易くなって、その興奮により、アストラル体が本来やるべき働きをやらずに、興奮を促進させてしまう。 興奮の本質は、アストラル体自体が独立し、興奮を促進する事にあり、アストラル体が何よりもまず、自我の知性に浸透され、理知により興奮を和らげてから、エーテル体などにバランスよく働きかけるべきである。 さて、このような事実から、病気の本質を、はっきりと理解するのが重要である。 つまり、病気の本質とは、自我の無力にある。自我は、人体で最初に働く天=太陽の力であり、つまり地球の力と対立する惑星の力を持つ。 だから、自我のバランス力は、惑星をバランスする太陽の統一力からやってくる。 従って、自我を強化するには、自我と関係する太陽の叡智=統一作用を理解しなくてはならない。そうすれば、自我が、適切にバランスよく、他の3つの人体と共に、統一的に、現場に参加できるようにすればよいのがわかる。 (会社組織と同じである。経営者が自我で、現場監督がアストラル体で、現場作業者がエーテル体で、顧客やクライアントなどが、物質体といえるだろう。経営者が現場視察をせずに、机上の空論ばかり命令すると、古い仕来りが横行し、ブラック企業化し、やがて崩壊する。)