「失われた時を求めて~ゲルマントのほう」を読んだ。
これで全14巻のうちの7巻なのだが、あいかわらず主人公の「私」には名前がなく、その職業もさだかではない。父は政府高官らしい、文学者としては多少の評価を得ているらしい…ということはそれとなくでてくるのだが、描かれているのは友人宅への訪問、祖母の死、そしてゲルマント公爵夫妻の晩餐会などで時間としてはいくらでもない。長編なのだが、主人公の人生を描くというよりも、主人公は読者に小説世界を提供する「眼」の役割をしており、そこで描かれる会話が小説の骨格をなしている。そして主人公はほとんどの場合、聞き役であり、会話の流れを左右するようなことはほとんどない。
第4巻「花咲く乙女たちのかげに~土地の名ー土地」では架空のリゾート地が舞台で、海や夏の日の情景描写がかなりでてきたのだが、この巻ではそうした情景描写はほとんどでてこない。
公爵夫妻の晩餐会といっても、どんな部屋で人々はどんな服装でどんな料理がでたのか…そんな描写はいっさいなしで、「私」の憧れた公爵夫人の才気ある会話が続く。
ブルジョアというのは普通は「金持ち」という意味くらいで使われるのだが、この小説では「ブルジョア」である主人公は貴族社会に憧憬をもっている。それがゲルマント公爵夫人への憬れの背景にあるように見える。ただこの時代の貴族といっても、古い家柄の貴族もあれば、政治変動の中でのしあがってきた貴族もあり、なかなか複雑なようだ。そのあたり、日本の華族が古代の源平藤橘の流れをくむものもあれば、戦国時代にのしあがった大名の家系もあり、また維新の功労者や財界人もいるというのに似ているのかもしれない。そして主人公から見て上の階級である貴族世界の社交界の会話が詳細に描かれる一方で、従僕や家政婦といった庶民も登場する。それも無知で文法上も誤りだらけの言葉を使う人物として。
特に、従僕の詩の引用をちりばめた、内容も文法も間違いだらけの手紙はそのまま引用され、笑いどころになっているのだが、庶民=無知という作者の視線もけっこう階級意識が強い。
小説世界のフランスはすでに共和制に入っていて、周辺の王国に囲まれていたのだが、それでも階級というのはかなり根強く残っていたらしい。