|
カテゴリ:カテゴリ未分類
先日のメンカン講座では、修復的離婚を達成した女性三人に語って頂きました。それぞれのプロセスに重なる部分もあれば重ならない部分もあります。
重なる部分は、男は対話が下手で相手の気持ちどころか自分の気持ちにも理解が乏しく、理屈や世間の価値観に基づいて思考するのに対して、女は社会的判断、一貫性、論理性等に乏しく、感情や個別の関係に基づいて思考しているという事。そのギャップがあまりに大きいので、結婚が破綻せざるを得なかったという訳でしょうか。 「俺が悪かった、すまん」「謝って済むと思ってんの?」「だからこうして頭下げてるじゃないか」「なんでそうなったのかわかっってんの?」「俺がこんなに誤ってるのに、なんで許してくれないんだ」「そーゆー態度がなんもわかってないってことじゃないの?」「いい加減にしてくれ、俺がこんだけ謝ってるのに、お前はちっとも前向きじゃない、ぶちこわしてるのはいつもお前だ」「何言ってんのよ、自分に向き合わないでいつもごまかして、逃避してるのはあんたじゃない」 というようなパターンの対話の末に、関係が破綻して行く訳です。これは破綻して行く夫婦どこにでもあり得る事でしょう。幸い、上記の三人は私と繋がっていたから、問題はこのコミュニケシーションギャップだと理解できたし、相手を悪人と思い込まずに済みました。また訴訟してのどろどろの争いにはせずにすみました。 この対話のモードの違いについて、多くの方は理解していません。もちろん、性差もあれば個性差もあります。人それぞれ言葉に付与する意味は異なるし、思考の論理構造も情動のありようも異なります。 先述の三人に対しても私はそれぞれのモードの違いを通訳して行った訳ですが、私に繋がっている人は状況に対する理解を深める事ができるけれど、私に繋がらない相手方は、理解を深める事も難しいし、自分を縛る価値観から解放される事も難しいようです。 私は、もめてる夫婦、親子の問題に関わる事が多いけれど、性差や世代差、性格特性、様々なギャップを超えて理解できるので、わかり合えない関係の中での通訳が可能です。けれど、そんな修復的支援はほとんどどこにもなくて、いきなり司法の場に突き進んで、相手を暴力的にたたくというやり方をする人が少なくありません。 相手を理解するよりもむしろ相手に投影される自分の妄想に怒り、闘いを始める訳ですが、それは問題の本質を見誤らせ、不毛な闘いで本人はもちろん様々な人を巻き込んでの争いになってしまいます。家庭が戦場になる事でだれも幸せにはならないのだけれど、その争いに火をつけ、あおるのはいわゆる、相談員だったり弁護士だったりする訳です。すべてのとは言いませんが、構造的そう言う現実があるのも事実でしょう。 ですから、それ以外の修復的支援が司法の中にも、そして様々な支援の場にもあればいいんだけれど・・・どこにも無いんですよねえ。修復的司法なんて言われてるけれど・・・まだまだ・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/08/08 09:55:20 AM
コメント(0) | コメントを書く |
|