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昨日の銀座ワーク、九時のミニゼミは初めから何名かの男性が来られてて、後で女性も何名か来られて女性ワークになる頃には十名程の集まりに。ミニゼミは「世代間境界」のお話。子供が育つ中で、価値観や文化生活習慣など様々な意識・無意識での学習をします。それは各地域、各家庭で異なりますがそれぞれの親子は共通したものを持ちます。
その子供が大きくなって誰かと一緒に暮らしだしたとき、それぞの文化や習慣が違うから、お互いを尊重しその違いを多様性と捉えることができるか、どちらかの価値観を優先して他方の価値観を無いものにするか・・関係の有り様は随分異なります。 伝統的な価値観が薄れ、多様な民族、文化を内包する個人主義的な欧米と、明治時代の時代錯誤な戸籍制度に縛られた日本の違いは、この家族に関わる価値観に大きな違いがあります。 日本では、家族が戸籍という家制度に縛られているから、なかなか単独親権制度を変えられないし、離婚に際しても、親権をどちらにするか、姓をどちらにするかなど、子供を家の付属物として意識する価値観からくる問題も発生します。 欧米では、「親の権利=親権」という概念より「親の義務」としての法概念があるようです。ですから、共同親権・共同養育は、離婚してもお互い養育の義務からは逃れられませんよ、という法的責任を問われるわけです。 離婚でどちらかが子育てを放棄することは許されないし、養育費だけ払えばいいなんてことにはなりません。もちろんそんな法律が存在する前提に、子育ては父母両方の責任であって、父も母も労働も子育てもやってて当たり前という社会状況があります。 けれど、日本では子育ては女の仕事、稼ぐのは男、という意識や社会状況があるから、離婚に際して司法は親権を母親優先にするということになりますし、慰謝料養育費は男が払うものという判断になるようです。また一方的に子をつれさる母親にすれば、「子育てにはほとんどかかわらず、子供のことを何もできない、わからないのに、離婚したらいきなり親権を要求して、子供から母親を奪おうとする、全く理不尽な夫」という言い分になるのもわからないではありません。 もちろん個別にはさまざまな事例があり、子育てしてた母親が子供を奪われたケースもあれば、子育てをしてた父親が引き離しで子供を奪われたというケースもあります。けれど全体的に見れば、性別分業的な家族関係と家制度を引き継ぐ戸籍制度が、引き離し問題と密接にリンクしているのも事実でしょう。 この辺り引き離し問題に関わる援助者で法律のことも家族心理に関わることも、欧米の家族文化に関わることも、どれも理解した上で援助できる専門家はまずいないと言っていいでしょう。ですから、夫婦間葛藤から離婚に至るプロセスで、人権意識の低い司法が金のやり取りだけ取り決める離婚手続きをしても、執行権のない面会交流を審判しても、結局何も解決しないということになってしまいます。 昨今、面会交流に関して画期的な司法判断もなされましたが、その判断が意味を持つのはまだ先の話でしょう。というのは、長年分離されていた親子が再統合して子の福祉に叶うかどうか、それは未知数ですし、そのための支援を可能にする援助者も援助論も存在しないのだから。 共同親権を求めたり、面会交流の拡大を求めるのは子の福祉に叶うことだとは思うけれど、そもそも離婚に至る夫婦間葛藤についてきちんと問題解決できたのか、離婚後に共に養育することを可能にする生活力経済力ができているのか、離婚に際しての養育プランを出さないと離婚できないという、欧米並みの司法判断とまではいかないにしても、養育に関する親の義務について無自覚、無能力な親がただ親権だけを要求しても、あまり説得力はないように思います。子供は親のものでも家のものでもないのだから。 昨日のワンシーンで、モラハラで離婚した男性が、DVでパパと別居してる母子の子供ちゃんと、ワークの最中もずっと遊んでたのは、とても素敵なシーンでした。父性モデルを求める幼子に一つの男性モデルを提供するのは子の生育にとても有意義ですよねぇ。 ブログに納得いただけたら、クリックお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016/05/16 11:06:00 AM
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