漱石と温泉7_宇佐・耶馬渓と守実温泉
温泉の村に弘法様の花火かな 漱石(明治43) 明治32(1899)年の正月、漱石は同僚の奥太一郎とともに、冬休みを利用して宇佐神宮・耶馬渓へと旅立ちます。 1月1日に熊本を出発し、鉄道で鳥栖、博多を経て、その日は小倉に宿泊します。鏡子の叔父・中根与吉の家に泊まったのかもしれません。 2日目は豊州鉄道終点である宇佐駅(現柳ケ浦駅)で下車してから4キロの道のりを歩いて宇佐神宮へと向かいました。初詣の後は、3キロほどの坂道を歩いて四日市に一泊しています。 3日目は耶馬溪の羅漢寺に参詣し、口の林の「中屋旅館」に泊まりますが、 短くて毛布つぎ足す蒲団かな 泊まり合す旅商人の寒がるよ 寝まらんとすれど衾の薄くして と、夜寒を嘆いています。 4日目は耶馬渓で句作などしながら守実温泉に泊まりました。漱石たちは守実の中心地に位置する大歳祖神社隣の河野謙吾宅に宿泊します。河野家は明治7年から郵便局を開き、上下8部屋もある2階建の建物です。郵便局の傍ら、旅宿も経営していたようです。漱石は「守実温泉に泊まりて」の詞書で たまさかに据風呂焚くや冬の雨 せぐくまる布団の中や夜もすがら 薄蒲団なえし毛脛を擦りけり と詠んで、さらに「家に婦人なし。これを問えば、先つ頃身まかりて翌は三十五日なりという。庭前の墓標、行客の憐をひきてカンテラの灯のいよいよ陰気なり」という詞書で 僧に似たるが宿り合せぬ雪今宵 と詠んでいます。守実温泉の泉質は弱アルカリ性単純水で泉温は34度と低く、リウマチ・神経痛・疲労回復に効果があります。 5日目は吹雪の峠を越えて日田に入り、筑後川を舟で下って吉井の天神町にある「長崎屋」に泊まりました。この日の一番の思い出は雪の大石峠で馬に蹴られ、「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」の詞書で 漸くに又起きあがる吹雪かな また、「吉井に泊まりて」の詞書で なつかしむ衾に聞くや馬の鈴 と詠んでいます。 6日目は、吉井から追分峠を越えて久留米に入り、熊本に帰っています。追分峠では「追分とかいう処にて車夫どもの親方乗っていかん喃というがあまり可笑し借りければ」との詞書で、 親方と呼びかけられし毛布哉 と詠みました。日頃、先生と呼ばれている身が、追分峠では「親方」となったことに滑稽を感じたのでしょう。 漱石は、明治32年1月14日の狩野亮吉宛の手紙に「小生例の如く元朝より鞋がけにて宇佐八幡に賽しかの羅漢寺に登り耶馬渓を経て帰宅。山陽の賞賛し過ぎたる為にや、さまでの名勝とも存ぜず通り過申候。途上、豊後と豊前の国境何とか申す峠にて馬に蹴られて雪の中に倒れたる位が御話しに御座候」と書き送っています。 『日本外史』で知られる頼山陽は、もともと「山国谷」と呼ばれていた地域に「耶馬溪」という名をつけました。、日本全国に教え広め下さった方、その方こそです。山陽が耶馬渓を訪れたのは文政元(1818)年3月6日のことで、中津郊外の正行寺を訪ねる途中にこの地を訪れています。漢詩『耶馬溪図巻記』を詠み「耶馬溪の風物、天下に冠たり」と絶賛したことから、奇観に富むこの地が全国に知れることになりました。