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カテゴリ:夏目漱石
裏返す縞のずぼんや春暮るる 漱石(明治28)
漱石が学習院の試験を受けたのは明治26年のことです。この年の7月10日、漱石は帝国大学文化大学英文学専攻の学生として2人目の卒業生となりました。そして、同年生まれの立花銑三郎に頼んで、学習院への出講あっせんを依頼しています。 7月12日に漱石が銑三郎に送った手紙は次の通りです。東京高等師範学校で歴史学を教えていた磯田良に東京高等師範学校へのあっせんを頼んでいたのですが、それが難しいため、学習院で心理学・倫理学を教えていた銑三郎に学習院へのあっせんを頼んだのでした。 拝呈。本夕磯田氏方へ参り色々相談仕り候処、高師(=東京高等師範学校)の方は目下経済上の不都合のため、多分雇入むずかしからんとの儀に御座候。もっとも右はまだ確と定り候次第にも無之候得ども、余程あやしく存候に付き、この際断然決意の上、学習院の方へ出講致し度、よりて御迷惑ながら御周旋被下度、小生今六時発の汽車にて日光へ向け出発、両三日後ならでは帰京不仕候間右乍、略義書状にて御願申上候。村田君へも右の事情よろしく御話しの上、貴君同様御尽助被下候様、御取計い是祈先は用事のみ。余拝顔の上。匆々頓首。(明治26年7月12日 立花銑三郎宛て書簡) 漱石の願いに銑三郎は応えます。しかし、残念ながら結果は不合格でした。 漱石は学習院で行われた講演を記した『私の個人主義』にことの経緯を綴っています。 その時分の私は、卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていいか知らなかったほどの迂濶者でしたが、さていよいよ世間へ出てみると、懐手をして待っていたって、下宿料が入って来る訳でもないので、教育者になれるかなれないかの問題はとにかく、どこかへ潜り込む必要があったので、ついこの知人のいう通り、この学校へ向けて運動を開始した次第であります。その時分私の敵が一人ありました。しかし私の知人は私に向ってしきりに大丈夫らしいことをいうので、私の方でも、もう任命されたような気分になって、先生はどんな着物を着なければならないのかなどと訊いてみたものです。するとその男はモーニングでなくては教場へ出られないといいますから、私はまだことのきまらない先に、モーニングを誂らえてしまったのです。そのくせ学習院とはどこにある学校かよく知らなかったのだから、すこぶる変なものです。さて、いよいよモーニングが出来上ってみると、あに計らんやせっかく頼みにしていた学習院の方は落第とことがきまったのです。そうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たすことになりました。(私の個人主義) 漱石は、学習院への出向が決まる前にモーニングをあつらえていたのですが、学習院への就職は灰燼と化してしまったのです。学習院の英語教師となったのは重見周吉でした。重見は愛媛出身で、今治中学から同志社を経てエール大学理学部・医学部を卒業。在学中にアメリカで自伝『日本少年』を出版しており、帰国して医院を開業しながら、東京慈恵会医学校で英語を教えており、そうした経歴がものを言ったのか、漱石を抜いての出講が決まったのでした。 あつらえたモーニングは、外出時の服を持たなかった漱石のよそ行き着として使われました。『私の個人主義』には「私は学習院は落第したが、モーニングだけは着ていました。それよりほかに着るべき洋服は持っていなかったのだから仕方がありません」と書かれています。 その後、漱石には第一高等学校と東京高等師範学校から英語講師の声がかかりました。漱石は、その依頼を放っておいたので注意を受け、どちらも断ってしまおうと考えます。しかし、第一高等学校校長の久原躬弦と東京高等師範学校校長・嘉納治五郎の間で話し合いが行われ、東京高等師範学校の英語嘱託となります。 治五郎は、漱石を気に入っていたようです。『私の個人主義』には「私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡(しゅんじゅん)したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったといって、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持(かけもち)しようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行くことになりました」と記しています。 漱石は10月19日より週2回の出講で、年額450円の手当を受けることになりました。 「しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困るといったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向な所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした(私の個人主義)」とあり、漱石は東京高等師範学校の窮屈さに耐えかねていたようです。それは松山へと旅立った理由の一つでもありました。 漱石と治五郎のやり取りは、小説『坊っちゃん』の狸校長と坊っちゃんの会話に生かされています。 教員が控所へ揃うには一時間目の喇叭(らっぱ)が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体のことを呑み込んでおいてもらおうといって、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長のいうようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円ではるばるこんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断って帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにがししかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。惜しいことをした。しかし九円だって、どうかならないことはない。旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますといったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいといいながら笑った。そのくらいよく知ってるなら、始めからおどささなければいいのに。(坊っちゃん 2)
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最終更新日
2019.08.19 07:08:04
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