漱石と親族32:鏡子の良妻度・良妻度・悪妻度08:伸六の反論02
私の母が、父と結婚したのは、父が四国の松山から熊本に移った直後であるから、今からおよそ六十年以上も昔のことになる。 勿論、見合いは、東京でしたのだけれど、その時父が、兄に洩らした感想によると、「あの女は、歯並びが悪くて、汚い歯をしている癖に、一向に、それを隠そうともしないところが気に入った」ということで、「金ちゃんも、随分と変な気に入りかたをしたもんさね」と、伯父がよく笑いながら、語っていたのを覚えている。 が、一見、奇もないこの笑い話は、よく考えてみると、不思議なほど、両者の性格を、最も端的に云い現わした逸話でもあって、父の一生を貫く、倫理的な潔癖性、いいかえれば、正直、不正直といった人間性に対する、人並以上に敏感な好悪の情と、母の、よくいえば、人の臆測などは気にもとめぬ、男のような性質と、悪くいえば、他人の気持などはあまり察しない無神経さとが、無意識的な父の言葉のうちに、はなはだ明瞭に、表現されているのである。しかも、この性格の相違ーー母の至って計画性に欠ける、ずぼらな大まかさは、常に数学的で細かく律義な父の神経を、しばしば剌激したことも頷かれる。 父が英国へ留学を命ぜられたのは、結婚四年ばかりしてからだが、ロンドン到着の当初は、しきりと母に、たよりを寄こすようにと書き送っている。が、筆不精の母は、あまり、そのいいつけに、忠実であったとはいえないのである。恐らく、生来筆まめな父には、手紙を書くということ自体に、予想外の苦痛を味わうーーそうした種類の人間がいることに、考え及ばなかったのではないかと思う。しかも、この母は、手紙が中々書けぬいい訳を書き送って、その理由が、まるで理窟に合わぬという意味から、なおさら、父を怒らせたのである。 父が、強度の神経衰弱におかされたのは、留学期間も、すでに半ばを過ぎてからだが、無論、この頭の状態は、帰国後も、続いたのである。 現在、新潮社の社屋が建っている所は、当時、母の実家のあった場所で、父の留学中、母は、ずっとその離れに起居していた訳だが、もう、留学期間も過ぎて、父から、いついつか幾日に帰るという報らせがありそうなものだと思っているところに、突然、「今神戸に上陸し、何時何分の汽車に乗る」という電報が来たのだという。それで、母も早速、新橋駅へ出迎えに行ったのだが、その時の父の様子には、別段、これといって変ったところはなかったとのべている。ただ、二人して、家に帰り、何年ぶりかで、火鉢を中に、ほっと対坐した時、ふと、床の間の横にかけてある、かつて父自身が、日本を立つ時、母に書き残して行った、「秋風の一人を吹くや海の上」という短冊を眼にとめるや、立ちあがった父が、いきなり、これをびりびりッと、引きさいてしまったというのである。 恐らく、その時の母とすれば、何が何やら訳の解らぬ気持だったに違いないが、父としては、遠い異国の亭主に、手紙も禄々書かなかった女が、何をしおらしく、自分の書き残した短冊などを飾っているかと、そのこと自体が、すでに我慢のならぬ偽善的行為に思えたのかも知れない。 父と母の暗い生活が、この日から、ずっとしばらく続くのだが、「道草」当時の父の癇癪を思うと、むしろ、母がよく辛抱したものだと、無論私は、この母の方に同情的である。というのも、母は、決して、いわゆるかかあ天下でもなかったし、ヒステリーを起して、亭主の頭から、水をぶっかけたり、金切り声をあげて、これに刃向うといった性質の女ではなかったのである。 この母がかつて嫂に「父親が早く死んだので、つい可哀そうになって、子供達をあまやかして育ててしまった」 と語ったそうだが、私は、ふと、母にもそんな気持があったのかと、今まで自分の気づかなかった一面を、この年になって、始めて、知らされたような思いがしたことを覚えている。 実をいうと、この母は、子供達に対して、一度たりとも、偉くなれだの、もっと勉強しろだのといったことはないのであって、学校の成績が良かろうが悪かろうが、決して、そんなことで、子供を叱ったためしがないのである。だから、吾々は、文字通り、自由に、ほとんど干渉というものを受けずに育った訳で、無論、その結果の良し悪しは別問題として、ただ、現在の如く、自分のみぇと欲から、哀れな子供の尻を叩き叩き、ほとんど遊ぶ暇もないほどに追い回す多くの母親と比較して、私は、この点だけでも、心から、母に感謝しているほどである。 もっとも、私の一番上の姉の筆子などは、よそへ行っては、母がだらしがないから、それで男の子も、碌な人間に育たないのだと、散々、母の悪口を吹聴しながら、「結局あれね、うちのお父様もお母様も、子供を育てる上には全然失敗ね。二人とも無能力者だわ」 などと、暗に、自分だけは例外だという顔つきをしていう始末だから、森田草平さんのように、これを聞いて、すぐさま、「もし先生が筆子さんのような気立ての奥さんを持っていられたらーーー」 などと、誠に笑止な想像をめぐらす狼狽者も出て来るのである。事実、母とこの姉とでは、頭の悪さこそ、同じ程度かも知れないけれど、人間的なよさという面から見れば、比較にならぬほど、母の方が上なのである。それに、吾々子供の立場からすれば、出世するしないは、勿論当人の心がけにあるのであって、今さら、その責任を母におしつけること自体が、間違いだと考えている。 この姉について、父は、かつてロンドンから、「倫さんの手紙によると筆は何か大変な強情ばりの容子だーー女が無暗に強情ではこまる。また、これを直すに無暗に押入に入れたりしてはいかん」 と書いているが、たしかに、この姉には、そうした欠陥が、多分にある。しかも、結婚してから後まで、これほど、母に面倒をかけた娘もないのであって、世話をしいしい、悪口をいいふらされては、母よりむしろ、吾々の方が、よほど不愉快な思いをしたほどである。 草平さんを訪問したこの長姉は、「いつかもあたしの家で夕御飯を済ましても、まだ一人帰らない子があったから、九時頃まで私が喰べないで待っていると、ほかの子達がどうしたと聞くから、まだ△△子ちゃんが帰らないじゃないの、それを待ってるのよというと、まあそう! と呆れたような顔をして、お祖母ちゃまならそんなことはしないわね、何か買って下さる時は本当にいいんだけれどもといっていました。子供たちーー孫にまでそう思われてるんだから」 と、いったそうだが、私は、長姉のこんな口吻を聞くたびに、二十四五年前に死んだ二番目の姉のことを思い出すのである。 不幸な結婚をしたこの姉は、当時、沼津に住んでいたが、ちょっとした風邪がもとで、肺炎を起して死んだのである。報知を受けて、ひとまず、私とすぐ上の姉と、それから、私等姉弟が生れた時から、かかりつけているなじみの医者の三人が、先に出かけて行ったのだが、もうその時には、病人の顔に、はっきりと死相が現われていて、ひどく呼吸が苦しいのか、見開かれた両眼の視点もぼやけて、ほとんど何を見ているのか解らぬといった状態であった。義兄は入院中であり、病室には、それでも、近所のかみさん連が、三四人手伝いに来ていたが、枕もとの火鉢を囲んで、まだ小学校に通っている小さな二人の姪と一人の甥とが、二三日間、碌に洗面もしないといった汚い顔を揃えて、いかにも不安そうに背を丸めている姿が、私には、一層哀れに思われた。 無論、この姉は、それから間もなく、息を引き取ったから、何かと用事をすませて、一汽車遅れて到着した母は、その死に目にも会えなかった訳だけれど、吾々としては、やっと東京から駈けつけたこの母に、すぐさま玄関先で、事実を知らせるということが、いかにも残酷に思われて、躊躇されたのも無理はない。 恐らく、母も、内心、同じような不安を感じていたのか、直接病室の方へは通らず、わざわざ二階へあがって、応接間の長椅子に腰をおろし、疲れを休めながら、医者と、それとない話を交わしていたが、やがて、「それで、病人の工合はいかがでございます?」 と、半分腰を浮かしかけた。が、急に眼を落して、頭をさげた医者の様子を見て、「死んだよ」 私は、已むを得ず、横から口を出したが、それと同時に、眩暈でも感じたように、母の身体がふらふらッと揺れたと思うと、椅子の上に倒れかかった。肥満した母の胸のあたりが、大きく波打っているのが、はっきりと見わけられるほどだったが、それでも、しばらくしてから、ようやく、「そうでしたか……」 と、立上り、遺体の安置してある階下の部屋に降りて行った。そうして、静かに、その枕もとに坐り、顔を蔽った白布を取りのけたが、突然、「まあ、まあ、まあ、お前は本当に不幸な子だったねえ」 と、両の手で、冷たい姉の頬をさすりながら落涙した。 私は、未だかつて、これほど悲痛な母の声を聞いたことがない。一見、芝居の台詞を思わせるような語調にもかかわらず、その声のうちには、母親としての万斛の悲哀の情が満ち満ちていた。しかもそこには、思わず頑是ない生れたての赤子に対して呼びかけるような、無限のいとおしさが潜んでいた。恐らく母は、合掌して瞑目した姉の死顔を見た時、遠い昔、自分のふところに抱きかかえて、子守唄を唱い唱い、育てて来たその赤子の頃を、咄嗟に思い出したのに違いない。 かつて、この姉を、気の進まぬ相手に嫁がせ、彼女を不幸な生活に追いやった責任者は、とりもなおさず自分なのだという気持が、母をいつも悩ましていたことを、実をいうと、私は、この時始めて知ったのである。 母が、以後、他の二人の姉に対して、結婚を強いる勇気を失ったのも、このためだが、私から見れば、こうした母に対して、夕食時に帰らぬ子供を、わざわざ待っていてやるのだといった思わせぶりの愛情などは、全然必要だとは思わないのである。(夏目伸六 父・夏目漱石 母のこと2)