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あま野球日記@大学野球

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2018.03.25
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:高校野球
​​古豪・静岡がスコア7-0で強豪・駒大苫小牧を下しました。静岡のエース・春翔一朗は初回から相次いで死球を与えるなど硬さが見られましたが、その後は立ち直り、終わってみればたった84球の完封勝利。コースを広く使い打たせてとる投球術で駒大苫小牧打線を封じました。27アウトのうち内野ゴロ15、奪三振0。春の「春」はまだまだ続きそうです~。



さて旧制静岡中時代、野球が始まったのは明治25年と伝えられています。なんと今から126年も前のこと。そもそもですが、米国人のホーレス・ウイルソンが旧制一高に野球を伝えたのが明治4年。鉄道技師だった平岡ひろしが日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を設立したのが明治11年。旧制一高野球部が横浜外人倶楽部と対戦し、野球の本場米国人チームに大勝して歓喜の涙を流したのが明治29年のこと。まさに静岡高野球部の歴史は、日本野球史とともにあるといっても過言ではありません。事実、日本野球史を紐解くと、旧制静岡中の名前は頻繁に登場します。
下記のような歴史上の出来事の積み重ねの上に、現在があるのですね。




たまたま今読んでいる『野球と戦争』(元巨人軍球団代表だった山室寛之氏が著者、中公新書)にも、2つの項で登場しています。ひとつは明治44年の『野球害毒論』、2つ目は戦時中の『野球統制令』。

前者は過熱する野球人気に対し、東京朝日新聞が悪意をもって冷や水を浴びせたネガティブ・キャンペーン。新渡戸稲造をはじめとした著名人に野球批判を語らせたもの。時の静岡中校長の中村安太郎も登場し、「揃いのユニフォームやグラブを使い虚飾に流れる」「空腹と渇きからビールや氷水などをがぶ飲みし品行面、衛生面に問題がある」「野球熱心のあまり学ますます劣等になる」と嘆き、さらに行動も尋常ではなかった。野球の試合は出場資格を学業成績によって判断し、試合当日に出場禁止を言い渡すこと頻発。こっそり選手たちが対外試合を試みると、校長自らグラウンドまで駆け付け試合中止を命じ、「教室に分散留置二日間」のけん責処分を付したこともあった。これらに反発した選手たちは翌日から「同盟休校」(授業のボイコット)に入ったこともあったとか。

そして後者は昭和7年に公布された野球統制令。当初は学生野球熱の「浄化」を目指すも、戦況悪化とともに次第に「弾圧」の色濃くなり、昭和18年、「野球王国」愛知県下の中学校(旧制)に対して「米英覆滅に縁遠き運動競技(野球など)は、旺盛なる愛国心に依り之を遠慮せしめる」(愛知県内政部長)旨の通達が出された。このことは近隣の静岡県にも驚きと強いインパクトをもって伝えられ、即時に野球の対校戦禁止を決定、体育の重点を銃剣道、滑空訓練などの戦時運動と勤労作業の徹底に切り替えた。

実はこの年5月には8回目となる天覧記念試合(静岡中対静岡商)が予定されていたが中止、静岡県内すべての野球部が解散した。静岡中では野球部解散式が行われ、校長の間処武夫が「本校は野球班を解散して戦技訓練に重点を移すことにした。野球が盛んだったので感慨はあるが、戦争完遂のため、過去にはとらわれない。資材不足のおり、野球用の資材を戦争目的完遂に使うことこそ国策に順応する」と部員に語りかけたが、部員はうつむいたまま無言だったという。



※写真はすべてNHK



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野球と戦争 日本野球受難小史【電子書籍】[ 山室寛之 ]​​​





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Last updated  2018.03.25 06:10:21
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