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あま野球日記@大学野球

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2021.09.18
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:大学野球
​ 法政大野球部員のうち30名以上が新型コロナウイルスに感染。一時は出場辞退も危ぶまれたが、幸い最悪の事態は逃れ、変則日程ながらも五大学でなく「六大学」で開幕することになった。

 ま、ひと安心なんだけれども、もし法政が出場を辞退して六大学が揃わないまま開幕したら、歴史上いったいいつ以来なのだろう? と、そんなことを考えて調べてみた。

 すると、出てくるわ出てくるわ・・・戦前は六大学揃わないことは決して珍しくなかったよう。昭和2年春(早大渡米)、昭和3年春(慶大渡米)、昭和4年春(明大渡米)、昭和6年春(法大渡米、明大出場遠慮)、昭和7年春(早大出場辞退、立大渡米)、昭和11年春(早大渡米)。大半の理由は”腕​​を磨く”ための渡米だったけれども、それに対し昭和6年春の(明大出場遠慮)と昭和7年春の(早大辞退)は異色。特に明大の出場遠慮とは何のことか? 調べてみると、「リンゴ事件」とならび二大不祥事と呼ばれる「八十川ボーク事件」がキッカケだったことが分かった。​​
※昭和7年春の早大辞退については後日紹介します。

 八十川ボーク事件は、昭和6年春、明治ー慶應2回戦で起きた。明治がスコア6-5と、1点リードで迎えた8回裏、慶應の攻撃。一死一・三塁の場面で明治の八十川胖投手(広陵中)は、三塁走者を牽制するモーションを見せてから、急転して一塁に牽制球を投げた。八十川はプレートを外していたが、慶應・腰元寿監督がダグアウトを飛び出して「ボーク、ボーク」と叫ぶと、審判はそれを認めてボークを宣言した。これに怒った明治は岡田源三郎監督以下、選手達が審判を取り囲み、抗議が40分以上続いた。結局再開されたものの明治がサヨナラ負けを喫すると、今度は明治応援団が黙っていなかった。慶應の選手たちを4時間にわたり球場に缶ヅメ状態にし、挙句の果てに慶應・腰元監督や一部の選手たちに暴行を加える事件に発展した。

 大和球士著『野球百年』によれば、
「慶大は明大応援団の騒ぎを不快視して、明大がリーグを脱退しなければリーグ戦に出場せずと声明を発した。明大は岩本野球部長、岡田監督が辞任し、以後の試合は棄権して出場せずとなり」ボーク問題は幕を閉じた。​

ーーー以上、「明大出場遠慮」とは、八十川ボーク事件において応援団が大暴れしてしまったことを反省し、明治大がシーズン途中に出場を遠慮したことが、その真相だった。

​ なお、八十川投手にボークを宣告された際、慶應の打席にいたのは、のちの高野連会長・牧野直隆さん(慶應商工)だった。自著『ベースボールの力』(毎日新聞社)には、この時のことが書かれている。​

「ボーク判定がなされた時にバッターボックスにいたのは僕で、それだけに印象深い事件なのである。(中略)7-6で慶大がサヨナラ勝ちしてしまった。歓喜にひたる間もなく、慶大側が目にしたのは、明大応援席からなだれを打つようにグラウンドへ下りてくる5,000人の応援団の姿だった。僕たちがセンター観覧席の下に逃れると、応援団が周りをぐるりと囲んだ。「白雲なびく駿河台・・・」と校歌を歌い、石を投げ込んでくる。出動した警官の懸命の説得に応じて、ようやく明大側が囲みを解き、僕らが合宿所へ帰り着いたのは深夜だった」。​





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Last updated  2021.09.18 19:37:26
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