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analog純文

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2023.07.29
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  『鴎外随筆集』森鴎外(岩波文庫)

 久しぶりに古本屋さんを覗いたら本書が目に入りまして、思わず、あれっ? 鴎外って随筆書いてるんや、という、まー、その後すぐ自分でも愚かしい思い違いと分かるような感想を持ちました。

 我が家には、今を去ること40年くらい前に岩波書店から出た新書版サイズの「漱石全集」と「鴎外選集」があります。どちらも我が家の本棚の肥やしです。
 で、それによりますと、「漱石全集」は少し薄い目の巻数で4巻、「鴎外選集」は分厚い目の巻数で3巻、随筆らしい巻があります。(それぞれを重ねて並べて背比べしたら、ほぼフラットでした。)

 漱石の方は、「小品」なんてタイトルのついているのが主に随筆関係(2巻)で、有名な「思ひ出す事など」や「硝子戸の中」とか、おや、「夢十夜」「永日小品」なんかも入っていて、これは随筆とは言えないんじゃないですかね。

 一方「鴎外選集」の方は、「評論・随筆一~三」となっていて、なるほど、評論と一緒にしたらそれは多いだろうな、と、納得。だって鴎外といえば、一時期「ケンカ屋林ちゃん」(鴎外森林太郎ですね)として、主に文芸評論世界でブイブイ言わせていた方ではありませんか。

 しかし、本当のところ、私が鴎外って随筆書くんだと、愚かしい思い違いをした理由は、なんとなくわかっています。
 いろんな鴎外関係の本を読んでいると、鴎外って、なにか絶えず戦っているって感じがするんですよねー。(山崎正和『鴎外・戦う家長』なんてその典型ですよね。芥川も、鴎外は胡坐をかかないなんて言ってますし、上述の「ケンカ屋林ちゃん」もそうかな。)
 だからついそう思っちゃったんですね。
 戦士は戦場で随筆を書くか? と。

 と、本書を読み始める前からやたらとゴタクが多いのですが、読みだしてしばらくしてまた驚いたことが一つ。(違いますね、読みだす寸前に気づいたことですかね。)

 本書は総ページ数、解説と最後の初出一覧まで入れて246ページであります。
 ところが本編の随筆は155ページで終わっています。
 この差、実は注釈(語注)が75ページもあるんですねー。
 収録随筆は18編です。平均値を出すことには何の意味もありませんが、偏在はありながらも、1ページにかなりの語注がついています。

 これは結構煩わしいですよー。でも、語注を読まないと訳が分からないページも多いです。ちょっとだけ、引用してみますね。(かなり古ーい難しーい漢字が使われているところは、すみませんが、引用者が勝手に略字に変えてます。)

​ 余す所の問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具を授けているかというにある。ここにその玩具を検して見ようか。わたくしは書を読んでいる。それが支那の古書であるのは、今西洋の書が獲がたくてして、その偶獲べきものが皆戦争(※)を言うが故である。これはレセプチイフ(※)の一面である。他のプロドュクチイフ(※)の一面においては、彼文士としての生涯の惰力が、僅に抒情詩と歴史との部分に遺残してヰタ、ミニマ(※)を営んでいる。​

 (※)の語に語注がついていますが、最初の「戦争」以外は、私がもの知らずなせいか、注がなければ全く何を言っているのかわかりません。
 というか、4つ以外にも、本当はもっとわからない表現だらけであります。

 というわけで、適当に飛ばしつつも、しかし読まねば前後がわからない注釈をしこしことページを繰りながら読み終えました。
 でも、少し読み始めると慣れてきて、さほど煩瑣ではなくなるんですね。
 それは、思うに、やはり鴎外の明晰な文体によるものではないでしょうか。

 難しい言葉はいっぱいあるのですが、非常に端正に書かれた文章は、どんどん読んでいくと「優しい」感じがしてくるんですね。(「易しい」ではありません。)
 解説に「鴎外随筆を代表する」とある「サフラン」「空車」などの随筆も、読者に優しく語りかけてくれるような、何と言いますか、一種「気品」の様なものがあります。さすが鴎外ですよねー。

 と、そんな読書の楽しみを味わせてくれる部分は確かにありながら、でも私としては、読み終えてしばらくするとやはり何か気になるんですね。

 例えば、鴎外の小説「じいさんばあさん」などでは読後感がとても心地よいのに、例えば「最後の一句」とか「杯」なんかは、端正に美しく描かれていながら、どこか狭苦しい感じが残るんですね。
 この後者の読後感と同じ感覚のものが、どうしてもこれらの随筆には残ってしまいます、わたくしとしては。

 その正体らしいものは、例えば上記の三つの短編を読み比べれば、たぶん誰でも納得がいくと思います。
 また、本書の解説にもこのように書かれたところがあります。(解説は千葉俊二)

 また鴎外にいわゆる随筆風の文章が少ないのには、小説や戯曲ならばフィクションという仮面をかぶることで自由にものをいうことができるが、随筆ではあまりに自己があらわに表現され過ぎることを嫌ったからかも知れない。

 (やっぱり鴎外、戦ってますねー。戦士ですねー。)

 かつて小林秀雄は、『徒然草』の作者吉田兼好のことを「見えすぎる眼」と評しました。
 私が大学で習った先生は、そんな小林こそ「見えすぎる眼」を持っていたと教えてくれました。
 鴎外が、少なくとも小林秀雄より劣って見える眼を持っていたとはとても思えません。

 その「見えすぎる眼」で書かれた文章に、より「自己があらわに表現される」随筆に、(そして戦場の戦士に、)どこかシニカルなものが漂い、そしてそれが読後感を少し狭苦しく感じさせるのは、やむなしとは思うものではありますが……。

 そういえば、見えすぎる眼の不幸は、小林秀雄もすでに語っていたと思います。

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Last updated  2023.07.29 17:16:36
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