カテゴリ:音楽
6月6日金曜日夕刻。今日は音大出の近所のママ友と二人で。
有楽町線護国寺の駅から地図を頼りに裏道を辿ると、高い鐘塔が見えてくる。 「あれだ!」二人とももうワクワクしてくる。 東京カテドラルの堂々たる威容にまず圧倒された。 今夜この中でコンサートがあるのだ。 明治時代に建てられた木造教会は東京大空襲で焼失し、 現在のものは丹下健三の設計で1964年に完成した建物。 代々木体育館にも似た、ステンレスとコンクリートが曲線を描く現代の教会である。 7時の開演まで、まだかなり時間があったが、もうぞくぞくと人が集まってきている。 今宵、このカテドラルにバッハの合唱を聴きに来た人々である。 これぞ目白バ・ロック音楽祭の目玉。期待に胸が高まる。 内部は、正面に巨大な十字架を仰ぐ打ちっぱなしのコンクリート。 斜めの壁面が高く高く天井で合体した抽象的な洞窟で瞑想にいざなうような空間である。 やがて音楽祭祝祭合唱団がしずしずと入場してきた。 日本人男女8名ずつ計16名のあと、最後尾でひときわ背の高い西洋の顔は まごうかたなく、指揮者のペーター・ダイクストラである。 身長2メートル9センチの彼は合唱団員の頭が胸のあたりに来る高さで、 後方の自由席からでもよく見えた。 今夜のプログラムは、バッハのモテットとメンデルスゾーンの宗教曲。 バッハもヨハン・セバスチャンだけでなく、ヨハン・ミヒャエル・バッハや ヨハン・クリストフ・バッハといった親戚筋のバッハ一族の作品もなかなかよかった。 また、メンデルスゾーンは、かつて一度忘れられかけたバッハの偉大さを再発見し、 「マタイ受難曲」などの傑作の復活上演を通して現代に伝えた功労者なのである。 バッハの影響も多大に受けたに違いないその合唱曲のなんと美しいこと。 ピアノ曲やオーケストラの曲だけではないんだなあ。 長短の彩りに満ちたメロディと微妙なハーモニーが心を震わせる。 それにしても人の声というものはなんと素晴らしいのだろう! カテドラルの音響の良さもあるに違いない。 残響は7秒に達し、典型的な中世ヨーロッパの大聖堂よりも長いと言う。 確かに、現代的なコンサートホールとは全然違った響き♪♪♪ こういう場所は日本では珍しいのではあるまいか。 祝祭合唱団はたったの16人。16人でこれだけの響きが出せるとは! 二重合唱の8重唱の場合は、ソプラノ・アルト・テノール・バスがそれぞれ2名ずつである。 合唱業界に詳しくないので、メンバーリストの名前を見てもわからないが、 メンバーの一人一人が素晴らしい歌い手であることは聴いただけで明らかであった。 各パートでそれぞれ違った旋律を歌っている。 一人一人が誠心誠意自分の旋律を歌う。 ほかのパートが歌っている旋律につられることなく、自分の持ち場を守って責任を果たす。 そして、ほかのパートが歌っている旋律も聴き分け、互いの歌に敬意を表する。 互いの歌を聴き合い、それを踏まえて、また自分の旋律の続きを歌うのである。 各パートの旋律が複雑に絡み合い、信じられないような豊かな和音が教会の空間を満たしていた。 そんなふうに声を合わせられるなんて、人間ってすごいじゃありませんか! それは人間の持つ可能性の啓示のようでもあった。 一人一人が精いっぱい自分の持てる力を発揮し、それを認め合い、その力を結集すれば、 こんなに少ない人数でも世の中に一つのメッセージを響き渡らせることができる。 そんなふうに思えた。 それを響かせているのは合唱の声だけではなかった。 カテドラルに集まった800人の聴衆がそろって一心に耳を傾ける。 その祈りにも似た真摯な沈黙が結集して圧倒的な静けさがもたらされる。 これもカテドラルが奇蹟の空間になるための必要不可欠な条件である。 そういう人間たちの「祈り」を先導する指揮者が、大天使ミカエルのごとく見えたのは、 堂々たる体躯のためばかりではない。 先日のオーケストラへのチャレンジの初々しさとは違って、 今日のような宗教曲の合唱はペーター・ダイクストラが物心ついた頃からやってきたこと。 すべての曲が血となり肉となってすでに彼の身体中に滲み込んでいるかのごとく、 楽譜もなしに、全曲をすっかりそらんじて指示を出す。 かつての天才ボーイソプラノは自信に充ち溢れ、 30歳の若さにして確かにもうベテランの風格である。 合唱団という生きものを縦横無尽にあやつるのだった。 満席のカテドラルは惜しみない拍手を送り、あちこちに立って讃える人の姿もある。 キリスト教と西洋音楽の切っても切れない関係を改めて感じた。 と同時に、信仰のあるなしにかかわりなく、なにか荘厳な喜びでいっぱいになるのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年06月09日 02時22分44秒
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