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カテゴリ:江戸切絵図歩きめぐり
2024年03月13日(水)快晴
昨日の雨から一転、今日は快晴。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区湊1~3丁目・入船1~3丁目・新富1~2丁目に当たる地区。08:45 佃大橋東詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第43回 】を歩き始める。 湊1~3丁目。切絵図に「鉄砲洲川」が描かれている。鉄砲洲川は、築地川(明石堀)と隅田川をつなぐ掘割。開削は寛永年間(1624~44年)とされる。関東大震災で出たガレキを処理するため、1929年に埋め立てられた。現在、跡地は鉄砲洲通りなどになっている。 「鐵砲洲稲荷神社」を訪れる。寛永元年(1624年)新京橋(現在の中央区銀座)から切絵図に「稲荷」と記された場所へ遷座。寛政2年(1790年)富士山の溶岩を用いた富士塚が、境内に築造された。明治元年(1868年)政府による土地収用で、神社は現在地(約120m南西)へ遷座。富士塚も移築された。 入船1~3丁目、新富1~2丁目。切絵図に「真福寺橋」「白魚橋」「弾正橋」とある。コの字型に架かる3つの橋は江戸の名所で、「三ツ橋」と呼ばれていた。当地には楓川・京橋川・三十間堀川・八丁堀の4つの水路が交差していたが、いずれも埋め立てられ、現在は残っていない。 弾正橋に設置されている解説石碑には、三ツ橋を描いた江戸名所図会が嵌め込まれている。また、京橋公園にある「蜊(あさり)河岸」解説板には、三ツ橋と堀割の略図が描かれている。 切絵図の真福寺橋の東袂に「大富町」とある。鏡新明智流の桃井春蔵が、ここに剣術道場「士学館」を構えていた。のちに士学館は、北辰一刀流の玄武館・神道無念流の練兵館とともに、幕末江戸三大道場のひとつに数えられた。嘉永6年(1853年)板の切絵図には「桃井春蔵」とある。 切絵図に「合引(あいびき)橋」とある。「築地川」に架けられた橋で、大富町と築地をつないでいた。江戸時代の築地川は、本流と支流が潮の干満によりその流れを引き合うため、「合引川」とも呼ばれていた。09:40 三吉橋、【 江戸切絵図歩きめぐり 第43回 】はここで終わり。 佃大橋東詰 → 三吉橋 : 3.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 126.2 km ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.03.14 08:26:46
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