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「歩きつなぎの旅」の記録

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タロウ@ Re[3]:【 東京歩きめぐり 第184回 】 木場 冬木(01/22) きんじろう36様 たいへんおそくなりまし…
きんじろう36@ Re[2]:【 東京歩きめぐり 第184回 】 木場 冬木(01/22) タロウ様 8月25日、兄はタロウさんの…
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2024.07.03
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2024年07月03日(水)曇


梅雨空。高温多湿で不快な暑さ。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の港区芝公園4丁目に当たる地区。09:10 東京タワー前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第52回 】を歩き始める。

「増上寺」を訪れる。明徳4年(1393年)増上寺は武蔵国貝塚(現在の千代田区平河町・麹町)に開山されたと伝わる。天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府後、徳川家の菩提寺となる。江戸城拡張に伴い、慶長3年(1598年)現在地へ移転した。

切絵図に「御㚑屋(おたまや 㚑=霊)」とあるのが、徳川将軍家の霊廟。ここに6人の将軍(2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂)のほか、正室・側室などが埋葬された。霊廟は墓所・本殿・拝殿など多くの施設から成り、当時最高の技術が駆使された。



1945年の空襲により霊廟の大部分が焼失。霊廟に祀られていた遺体は、1958年 現在の将軍家墓所に改葬された。切絵図に「黒本尊」とあるのは増上寺の秘仏で、年3回行われる祈願会の時だけ御開帳される。

切絵図に「山門」とある「三解脱門」は、元和8年(1622年)に再建されたもの。この門をくぐることにより、三毒(貧り・怒り・愚かさの煩悩)から解脱できるとされる。「黒門」は増上寺方丈の表門を移設したもので、慶安年間(1648~52年)3代将軍家光による建立という。



「台徳院霊廟惣門」は2代将軍秀忠(台徳院は院号)の霊廟惣門。寛永9年(1632年)に建立された台徳院霊廟の大部分は戦災で焼失したが、惣門は焼け残った。将軍家墓所の入口にある「鋳抜門(いぬきもん)」は、文昭院(6代家宣の院号)霊廟の宝塔前にあった中門を移築したもの。



切絵図に「弁天」「宝珠院」とある。かつて増上寺の南西隅に大きな蓮池(弁天池)があり、貞享2年(1685年)その中島に弁天堂が建立され、同時に宝珠院が創建された。戦後 弁天池は埋め立てられて小さい人工池になり、弁財天は宝珠院で祀られている。



切絵図に「五重塔」が描かれている。2代将軍秀忠の供養塔として承応年間(1652~55年)に建立された。文化3年(1806年)大火により焼失、文化6年(1809年)再建。1945年 戦災で焼失し、礎石などの遺構は残っていない。



「芝東照宮」を訪れる。元和3年(1617年)国家守護のため徳川家康を祭神として「安国殿(家康の戒名に由来)」と称して創建された。神仏分離令により 1873年に東照宮と改称。1945年 社殿は戦災により焼失した。現在の社殿は 1969年に再建されたもの。

切絵図では芝東照宮の位置に「飯倉 茅天神」とある。かつて芝東照宮の敷地に茅野天満宮(別名 飯倉茅天神)が鎮座していたが、神仏分離令により幸稲荷神社(港区芝公園3丁目)の境内に遷座合祀された。09:50 都営地下鉄 芝公園駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第52回 】はここで終わり。


東京タワー前 → 芝公園駅 : 2.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 161.5 km )






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Last updated  2024.07.04 09:18:25
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