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朝吹龍一朗の目・眼・芽

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2010.11.14
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カテゴリ:ばっちっこ

既に演奏は始まっていて、テナーサックスが野太い、しかし高音が程良く混じった不協和音を積み重ねている。テーブルが8つくらい、ボックス席が2つ、合わせて30人くらいが定員だろうか。ジャズクラブとしては広くもなく狭くもない、ちょうどいい広さだ。と言っても、このときからそんなことを理解していたわけではない。この後新宿に限らず六本木や銀座を徘徊してなんとなく身につけた尺度だ。この日、『J』には4組くらいしか客がいなかった。

空いた店内を見るともなく見回し、耳はベースがやけに上手いと思いながらボックス席でジントニックを舐めていると、やがてそのベースのソロになった。

半分目を閉じ、口を少し開いて、右腕には青くて重たそうな太いバングルをしていた。ご丁寧に直径五センチもあろうかと思われるリングがバングルから連なって、これも重そうに揺れている。

ベースにすがりつくように小さな身体を巻き付けてスラッピングするかと思うと、いつの間にか取り出した弓でアルコしたりする。目がくぼみ、頬がこけているように見えるが、それを補って余りある美形だ。久しぶりに美人という名詞に値する女を見つけた気がする。

ソロが一区切りついたところで俺は場違いなほど大きな拍手をした。ベーシストが顔をあげて投げキスを返してきた。響子が股間に手を伸ばしてきたのを俺は無視した。

次の曲は俺の知らないブルース系で、ゆっくりしたテンポで始まった。テナーサックス、ピアノ、それにドラムスとベースというワンホーンカルテットで、リーダーはもちろんサックスなのだが、俺の拍手に気を回したのか、ベースがソロを取る時間がやけに長い。

やがてベースが揺れ出す。ベーシストともども揺れ出す。それは、これまで聴いたどんなレコードよりも俺を酔わせた。ポール・チェンバースよりも、ミロスラフ・ヴィトスよりも、ロン・カーターよりも、チャールズ・ミンガスよりも、デイヴ・ホランドよりも、ピーター・インドよりも、誰よりも心を捕らえた。ああ、みな古い顔ばかりだと言うかもしれない。たしかに50年代から60年代にかけて、マイルス・デイビスの周りにいたベーシストばかり並べてしまったかも知れない。でもそれは俺のせいではない。区立図書館には新しいレコードがなかったというだけのことだ。

ご丁寧に素人っぽい照明がベーシストに当てられた。濃い影を生じるへたくそなライティングが一層顔の彫りを目立たせる格好になった。音が先か、その肢体が先か、それともあの顔か。俺はどうでもいいような順番、あのベーシストを好きになった順番をぼんやり考えていた。

「ねえ、どうしたの」
遠くで響子の声が呼んでいる。義理でも答えなければならない。
「Fall In Love」
「え?!」
「あのベースと寝る」
「え? どういうこと?」
手に二杯めのジントニックを持ったままだったことに気付いた。響子になんか答えるつもりもなく、ちょうど通りかかったボーイにジョニ黒(注1)のダブルを2杯頼んだ。すぐに持って来いと急(せ)かしもした。何と言ったって、響子にはパトロンが出来てしまったのだ。おれの嫉妬の裏返しのようなものだ。

振り向くと響子の目からちょうど大きな粒がこぼれ落ちるところだった。急いで舐めとってやった。しょっぱかった。これで単なる俺の浮気だと納得したようだった。だが俺のは本気だ。ボーイが運んできたオールドファッションドグラスを二つ持ってステージのすぐ前、向って右のテーブルに向かった。

腰を下ろし、仰ぎ見るとベーシストは目の前だ。左のテーブルには縦じまのやや派手な背広を着た中年の男が一人で座っている。いわゆるスポーツ刈りの頭、太りもせず痩せてもいない、それなりに筋肉もありそうな体つき。上背は、そう、170センチはないように見える。俺をじっと見つめているのがわかる。敵意も感じられる。こういう店には初めてなので、客同士が変な競争心や嫉妬心をぶつけ合ったりするのだろうと軽く考えて気にしないことにした。

左手を高くあげ、ベースを緩く抱える姿は、フレデリック・レイトン男爵(注2)描くプシュケーにそっくりだと思った。叙勲の翌日、狭心症の発作で亡くなった、貴族であった最短期間記録保持者だと、くだらない、どうでもいいことが画集の解説に載っていた。大事なのは画だ、残した作品だ。画家なんてそれだけで評価されればいい、こんなプシュケーを残したなら、彼にとって男爵なんて付け足し以外の何物でもなかろう。うす暗い図書館で大きな画集を広げ、決して解像度の良くない画像を眺めながら、ロンドンのテイト・ギャラリーという美術館を想像したのは、ついちょっと前、中学校3年の入学式騒動の後のことだった。こんなところで本物(?)のプシュケーに出会うとは思わなかった。俺は何故か俺の寿命が二十歳で尽きると予感した。

やがてせつなそうな音色とともにテナーサックスカルテットの演奏が終わり、リーダーが型どおりのあいさつをしてセッションは一区切りついたことになった。
「お帰りの前に一杯いかがですか」
ベーシストに向ってジョニ黒のグラスを差し出すと、何のためらいもなく手を伸ばしてきた。半分くらい一気に飲み、グラスをテーブルに戻し、20センチほど高くなっているステージに文字通りぴょんと飛び乗り、そのままふらふらとバックステージに消えるとすぐに大きなケースを抱えて戻ってきた。

言われなくても手伝いに上がった。が、ものの役に立たない。俺は結局ケースの蓋を開けて待っていることしかできなかった。ほんの数分でベーシストは楽器に飛び散った松脂を拭き取り、エンドピン(注3)を抜き、慎重にケースに収めると、すでに緩めてあった弓を所定の場所にしっかり固定した。ここまで、すべてベーシストが自分で作業した。

「送ります。このあとの予定は?」
「あんただあれ?」
言いながらテーブルの上のグラスを取り上げた。明らかに酩酊した声としぐさだ。グラスに向かった手はゆらゆら揺れながら遠慮でもしているかのように伸びて行った。ベーシストは遠慮なんかしていないことは明らかだから、これは酔っぱらっている証拠だと思った。

本名を名乗ろうとしたとき、
「この人、いい人がいるんだから、坊やはやめとき」
とオカマちっくな声がした。リーダーのサックス奏者だった。続けてベーシストに向って言った。
「さ、帰ろう」
「やだ」
ベーシストは短く、はっきりと言い放つと、テーブルに座って俺の分までグラスに手を出した。
「モもヨチャン、だめダよ、まズいよ」
今度はドラムセットを叩いていた黒人が妙なイントネーションで言い募った。それもベーシストは、「ももよ」さんは、無視した。
「もうちっと練習してから言いな。へたくそ。よりによってあたいのソロの時に間違うんじゃないよ」
俺もこのドラムスがやけにへたっぴいで、ベースソロの時に途中でリズムが狂いかけたのには気がついていた。俺はこらえ切れず、にやにや笑ってしまった
「笑ったネ、じゃあ、おマえ、できルンか」
「俺は、客だ。そして、ももよさんの、ファンだ。文句ないだろう」
「文句ある人、いるかもよ」
今度はいつの間にか寄ってきたピアニストが割り込んできた。
「争うつもりはないけど、初志は貫徹する」
俺のいささか古いボキャブラリーを誰も理解できなかったようで、これ以上話が進まなくなった。ボーイたちがテーブルの間を行き来しながら閉店の片づけをしている。

「ま、いいよ、好きにしなよ二人とも。俺ら、知らないからね」
結局これが結論なのだろう。リーダーのこの発言を潮に、ほかのメンバーは俺たちを置いて出て行った。
「アシ、いなくなっちゃった。まいっか、楽器は。あしたもここでライブだし。今日は身一つだし」
その言葉をきっかけにして「ももよ」さんはいったんバックステージにコートを取りに戻り、俺は既に響子が去ってしまったボックス席に学生服を探しに行き、誰もいなくなったフロアを何の心配もせずに通り過ぎ、連れだって、手をつないで、地上へ出る階段をのぼった。エウリュディケーを連れ戻すのに成功したオルフェウスのような気がした。

外は1カ月以上早い木枯らしのようだった。ちょっと寒い風が吹いていた。


注1)ジョニーウォーカーの黒ラベルのこと。当時1本1万円ほどした。高級な酒の代名詞。
注2)フレデリック・レイトン男爵 (Frederic Leighton)いいサイトがなかったので、これを。
   http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2002vn.html
   「プシュケの水浴」
注3)ベースの下の部分に突き出ている金属の棒。これをステージに刺して楽器を
   安定させる。







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Last updated  2010.11.14 22:34:40
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